【エピソード0】誓い──君の名を(2)
数年後、少女は女性へと成長していた。愛する人とおだやかに歳月を重ねていた。姫だったことを忘れた女性には、ごく自然なちいさな幸せが大きな、大きな幸せだった。
「留妃姫!」
勝手に開いた玄関。突然聞こえた声。それらに、家の主と女性は驚く。──いや、特に家の主である男性は、目を見開いて女性を見つめていた。
女性の名を『留』だと知っていたものの、まさか失踪中の姫だとは思っていなかった。
「貴女は……」
男性の動揺に、留は下を向いて答えることができない。しかし、留を見て、『留妃姫』と聞けば、クロッカスの色彩と美しさが『留妃姫』であると認めざるを得ない。
家の中は静まり返ったが、玄関からは不躾に声の主が入ってくる。
「やっと見つけました! さぁ、帰城しましょう!」
留を迎えに来たのは、五つ年上の護衛だった。彼は代々鴻嫗城の姫を護衛している涼舞城の長男。もう、何代目になることか。涼舞城は剣士の名家。長男を鴻嫗城の護衛として出すことで、忠誠を誓っていると示す城だ。涼舞城を継ぐのは次男だが、格式高い彼も、貴族の規定は承知している。
留のバッサリ切られているクロッカスの髪を見て、彼は言葉を呑んでいたに違いない。絞り出すような声が聞こえてくる。
「その髪は、見なかったことにいたします」
「嫌です! 私は! ここで、この人とっ」
「お言葉ですが、留妃姫。今なら! その男性を……まだ、隠せます」
留は頭が真っ白になった。そして、護衛の背後を見て悟る。『今なら男性を殺さないで済む』のだ、と。
瞬時、留は目を見開き、懇願する。
「嫌……私のせいでこの人を、貴男が、切るだ、なん、て……」
震えるように、留の首が左右に振れる。──護衛の彼の手は、腰にある剣には伸びなかった。代わりに、留へと差し出される。
「でしたら、留妃姫」
これが最後の通告だろう。彼なりの、精一杯の。
留はわかっていても、すぐに彼の手を取ることができなかった。ただ、留は留なりに考える。
もしかしたら、留が誰にも何も言わずに城を飛び出してから、護衛だった彼は何かしら処罰を受けたのかも知れない。それは、彼自身に直接ではなくとも、彼の生家に対してだったのかもしれない。もし、後者だとしたら、その方が彼には辛かっただろう。──そうか、籠の中の鳥は、彼も同じだった。
留は、やっと気づく。そうして、最大限に自身を庇ってくれた彼の言動に、留は覚悟を決める。
「貴男と……帰城いたします」
数年過ごしてきた男性の気持ちも、護衛の彼の思いも、母の心配も、自身の未熟さも混ざって、涙がいくつも雫となって落ちていく。
留の涙がボロボロと落ちていくと、護衛は家の主である男性にやさしい口調で謝罪する。
「お騒がせして、申し訳ありません」
男性に頭を深く下げる。重力に従い垂れる、長いリラの髪。
「いや……」
男性は低い声を出す。
リラの髪を揺らし、護衛は顔を上げる。瞳の色と同じ、髪の毛の色を視界に入れながら彼は男性を見た。──男性は混乱しているようだった。もっともだと思いつつ、彼は踵を返す。無言で留の手を引いて。
「来世で必ず、結ばれましょう!」
留は引きずられるように歩きながら、男性へと叫ぶ。
「『留』という名で今度は産まれてきて! 私は……貴男を見つけ出します。絶対に!」
男性は立ち上がり、留を見つめる。やっと状況を把握したのか、男性の瞳からも大粒の涙が流れる。
「わかった。絶対だ! 絶対に俺は『留』という名で、愛する君の名で! 今度は生を受ける! 来世で貴女と結ばれて、幸せになるために! 君を、今度こそ幸せにするためにっ!」
留は男性の言葉を聞き、大きく表情が歪む。崩れた顔を恥じるように伏せ、何度もうなずく。
留は歩きながら、男性が見えなくなる前に必死に涙を止めた。あふれてくる涙を抑えながら顔を上げる。
現世で会えるのがこれで最後ならと、満面の笑顔を男性に向かって浮かべる。──ふたりは悲しみで流れる涙に耐えながら、笑顔で別れた。
数ヶ月後。留の周囲は騒がしかった。母は婚姻を強く勧めてきたが、留は、
「帰城だけで充分よね?」
と婚姻に拒否の姿勢を貫いた。
護衛の彼は、
「ずい分と芯がお強くなって」
と留に笑う。
帰城してからおよそ半年後、留は幸せそうに娘を腕に抱いていた。留は、娘が愛しい人との子だと思うとかわいくて仕方なかった。
娘は『紗如』と名付けられた。
そして、留は代々続いてきた『姫』が城の道具のように扱われることからの脱却を考え始める。かわいい娘には、これまでのような政略結婚をさせてたまるかと、城内の者と戦うことを決めた。
時が流れ。留の愛娘の紗如は、二十二歳で男の子を産んでいた。双子だ。このちいさなふたつの命は、紗如が切望した結果。
しかし、紗如が愛した男の命は、留ひとりの力では守りきれなかった。悔しさは大きい。だが、愛娘には無理に結婚をさせなくて済んだ。それに、ちいさな命がこの世に無事生を受け、留は心からうれしく思った。
言い伝えはあれど、愛しい人との子が無事に産まれたのなら、これ以上の幸せがあるものか、と。
双子は留の人生や思いを込めて、紗如が名付けた。双子の父の思いとともに、願いと祈り、望みをたくさん詰めて。




