【91】耽溺(2)
忒畝だ。
うっかりここで会ったとして、何と言うべきか。──と、瑠既は遭遇したくないなと漠然と思っていた。
まもなくして沙稀と恭良が入場してきて、ふたりの様子は挙式のとき同様、仲睦まじい。恭良が沙稀のとなりにいれば、その表情はゆるやかで、やさしいものへと変わる。
──ああ、よかったな。
沙稀の幸せそうな表情に、瑠既は胸がいっぱいになる。感極まり、あろうことか、いつの間にか涙目になっていた。
おだやかな雰囲気で微笑ましい空間。だからこそ、瑠既は隙を見て、姿を消した。
ふと、違和感を覚えたのは、沙稀。会場内を見渡し、そこで、誄も瑠既の姿がないことに気が付いたようだった。
瑠既を求めるように、慌てて会場を飛び出す誄。その姿を視線で沙稀は追う。
「どうしたの?」
愛する人の声に、沙稀の鼓動は跳ねる。
「ううん」
やんわりと恭良に微笑み返す。忽然といなくなった瑠既と、それを追った誄が心配だが、ふたりで解決してもらう他ない。それに、今は恭良に余計な心配をかけたくなかった。
会場を出た誄は、瑠既を探す。
──また瑠既様は、いなくなってしまうのかも知れない。
漠然とした不安が誄を焦らせる。
一方の瑠既は、鴻嫗城から出て、地下とは逆の人気のない草むらで横になっていた。仰向けになって空を限りなく高く感じ、見上げる。ここなら、誰にも見つからないと思って。それなのに──。
「瑠既様あっ!」
誄の声が、瑠既の鼓膜を震わせた。
だが、空を見つめ続け聞こえないふりをした。草を踏む音が、近づいてくる。しかし、そうなっても瑠既は空だけを見た。
間近まで来た足音はピタリと止まると、ふわりとドレスの裾とクロッカスの長い髪が視界を乱す。
「私もおとなりに寝ちゃいますぅ」
瑠既の表情は、誄からは見えないのか。楽しそうな誄の声がした。
勢いだけで瑠既のとなりに横になった誄がのぞき込んでくる。乱入する顔に、瑠既の視線が動く。
誄はふふふと楽しそうに、けれど恥ずかしそうに笑っていた。視線が合ってしまって、瑠既も照れ笑いを返すしかなく。視線を逸らそうとしたが、瑠既の意識の方が遅く。本能のように動いた腕の方が、早くて。
瑠既は誄を抱き締めていた。頭をなでて、頬を寄せて──ああ、ずっと想っていた人が、腕の中にいるのかと実感すれば想いはあふれて。
誰と、結ばれたいとずっと願っていたのかと。己の幸せの光景は、この人とあったのではないかと。取り戻すように、むさぼるように求め──けれど、それは実に一方的で。誄からすれば、困惑でしかない。目をつぶっているのは、恐怖なのか。腕を伸ばして抵抗を示すのは、実に自然なことで。
瑠既は頭では理解しているのに、体は自身のものではないかのように動き続けた。誄の抵抗する手をつかみ、無駄だと示す。
男の力が、いかに強いか。女、子どもの力はどれほど無力か。瑠既は痛いほど知っている。知っているのに、それを誄に思い知らせるようなことを、し続けている。
誄がまぶたを開けた。助けを乞うような瞳で瑠既を見つめる。──だから、不意に手が誄の顎を上げた。
そこで、瑠既は我に返った。
誄は、助けを乞いてはいなかった。野外で、乱暴に、ドレスを乱してかき回されたというのに。潤んだ大きなクロッカスの瞳で、ただ愛を囁いてと訴えている。
──俺は、『誰』を見ていたのか。
問わなくとも、答えはかんたんだ。脳裏には、しっかりと浮かんでいる。見ていたのは、七歳の瑠既だ。
「瑠既さ……」
強引に唇を合わせる。『やめろ』という声と『まだだ』という声が頭の中で響く。思考を支配していくのは『ほしい』という欲。『嫌だ』と理性がもがいても、『壊せ』と誰かが。『守る』と瑠既が反発すれば、『同じにしたいんだろ』と誰かが瑠既をつぶしてくる。
濃厚でいて、体温の伝わらないほど冷たい口づけを注ぐ。戸惑う誄に、更に本能が暴走していく。瑠既は必死に止めようとするのに、心が置いてけぼりになる。
誄の、悲鳴が聞こえた気がした。
いや、誄が声を出そうにも唇を唇で塞いでいるのだから、出ないだろう。死にかけの蝉のように一瞬だけ激しく動いたが、無駄だと察したのか抵抗するのをやめている。抑えた力がゆるんで、唇もずれ浅く乱れた呼吸がもれた。同時に、誄が息を吹き返すかのように、大きく息を吸い、息を整えようとする。
苦しみからか、ぼんやりと開くクロッカスの瞳に泉ができている。そんなぼやけた視界が、瑠既の視線に気づいて固定された。
ゆるんだ瑠既の手から誄の手がスルリと抜けた。誄は、何かを言いたげに口を開いたが、声を発しない。
ふと、誄の手が瑠既の頬に触れる。
「倭穏さんを、思い出して……いるの、ですね」
誄は、倭穏のことを大臣から聞いていたのだろう。決して責める口調ではなかったが、瑠既の瞳には急激に涙がたまる。
ひとつ、またひとつと涙は雫となり落ちていく。涙は瞬く間に雫から、一本の線になり頬を伝う。その涙が誄の腕に伝うころ、ようやく瑠既は体の自由を取り戻した。肘を草の上につき、誄に埋もれていく。
「こんな俺が、貴女を……愛して、いいのですか……」
懇願するような囁き。憧れを砕くように壊しておいて、愛したいと誠意を吐くなど、どうかしている。こんな行動をとる前に愛を言葉にすることもできただろう。順を追って距離を縮めていくこともできただろう。──いや、瑠既にはできなかった。貴族ではないように生きてきたことも、貴族に戻って生きることも、順を追って、とはならなかった。貴族に戻って生きるなら、時間を飛び越えて『あの日』の続きからだった。
できるものか。失ったものも、大切だったものも、無にできるものか。
同じ土俵に戻れないのなら、同じ土俵にしなければ、何も始められない。──それが、こんな結果を生んで。とてつもなく苦しく、悔しい。
泣き崩れる瑠既の背中に、スッと腕が回った。フワッとやさしい甘さの香りがして、誄の頬がそっと瑠既の頬に触れる。背中をポンポンとやさしくなでて、包む。
誄は何も言わない。ただ、誄が知らない歳月のことを思っているのだけは感じている。誄が向ける深い愛情は、瑠既が幼いころに負った傷口をも癒していく。




