【91】耽溺(1)
鐙鷃城は、鴻嫗城よりも海が見渡しやすい。昨夜、瑠既は鐙鷃城から海が一番臨める場所に立ち、絢朱の方角を眺めていた。
何度も眠ろうとした。けれど、寝付けずに、気づけばフラフラと海胡を求めて歩いていた。懐迂の儀式が無事に終われば、共鳴して輝く海の一部だ。
窓を開けて身を乗り出しながら、倭穏とともに梛懦乙大陸行きの船に乗っていた日のことを思い出す。あのときも深夜の海を眺めていた。出生を倭穏が知ったら何と言うかと、どうやって話すかと思いながら。
縛られていたのではなく、自ら縛っていたのだと気づいても、未だほどけない。いや、かえって自ら余計に巻付けてしまったような気さえする。
海胡に輝きを取り戻すことを、使命のように思っていた。それなのに、海胡の輝きを見ることに憧れていた。
これは、矛盾している。海胡が輝きを取り戻したとき、懐迂の儀式を行った者たちは、あの光を見ることができない。聖なる泉に意識を預け、身は鴻嫗城の地下にあるのだから。
けれど、まもなく瑠既の願いは叶うのだろう。祖母からの思いを託した双子の弟によって。
無風だった夜空が、サラリと頬をなでた。もしかしてと瑠既が思ったのは束の間。海面が光を放ち、神々しいまでの光が急激に広がっていく。息を呑むなんてものではない。新しい世界が開かれたかのような、見たことのない輝き。
「わあ! 瑠既様、この光は……もしかして」
背後からの声に、瑠既はドキリと鼓動が跳ねる。呼吸の仕方を思い出したかのように、大きく息を吸えば、聞こえてくる足音は近づいてきて。すぐに瑠既のとなりまでやってきた。
「沙稀様が、叶えてくださったのですね」
感極まったような笑みを浮かべ、海胡を見つめる美しい横顔。
「ああ……」
咄嗟に海胡へと視線を戻すが、大波がいくつも波打つように瑠既の心は落ち着かなくなる。
一緒に見ようと約束はしていなかった。だが、誄はそのつもりだったのかもしれず。誄は、幼いころから瑠既の婚約者であり、瑠既が海胡を輝かせる使命を果たしたのであれば、懐迂の儀式の相手は誄だったわけで。
「きれい……ですね……」
ポツリと言う誄は、どんな気持ちなのだろう。
瑠既は、倭穏と笑いながら見ていたかもしれないと思っていたところだった。誄との婚約を公表して半年。その前から婿に来るからと、毎日のように身支度を整え鐙鷃城に来ていたというのに。身支度には慣れた。ただ、誄とは向き合えないままでいる。
義母とはお茶をし、花の手入れをして、造園に勤しむ。義父とはチェスをして、本を借りて、談笑を楽しむ。そういう、昔の継続のようなことはできるのに、誄への接し方だけがわからない。
誄があまりにも昔のままで。瑠既を見てにこりと微笑んでは、楽しそうに話し始めるから。つい、『ごめん』と言いそうになる。『待たせすぎた』と詫びたくなる。それに、『こんな身でいいのか』と問い詰めたくなる。
けれど、それは単に自己満足で。聞きたくもないことだろうと、言えもしないことだろうと口をつぐむ。そうしていても、誄は実にマイペースで。瑠既の態度を気にせずに、やさしさを注いでくれる。
だから、今度は手を伸ばしそうになる。抱き締めようとしてしまう。だが、それこそ自己満足にすぎないと感じて。いたたまれなくなって、その場から姿を消すしかできなくなる。
衝動的な感情だと思いとどまる。誄が近くにいると胸が高鳴るが、恋なのか、欲望なのかがわからない。
誄は、どちらでもいいと言うかもしれない。でも、瑠既は昔、大事に接してきた憧れの人を、欲望なんてくだらないもので塗りつぶしたくない一心で、歩み寄るよりも引き下がる方を選び続ける。
だから『きれい』と言った誄の声に吸い寄せられそうになって──瑠既はその場を離れる。
まもなく夜明けだと思えば、鴻嫗城へ帰城しても誰かに見つかり咎められることもないと判断して、鐙鷃城を出る。海胡の光を朝日のように浴びて、鴻嫗城の自室に戻って窓を開ければ──海胡の光は届かず、朝日がうっすらと姿を見せていた。
双子の弟の結婚を祝福しようと、普段よりも気を遣って身なりを整え、頃合いをみて新郎の控室へと赴く。さぞ幸せそうな表情をしているのかと思って顔を出せば、なぜか不機嫌な沙稀がいて。理由を聞けば、
「俺よりも先に、大臣が恭良のウエディングドレス姿を見ている」
と言う。
話しを聞けば、恭良がバージンロードを一緒に歩いてほしいと大臣にお願いしたらしく、大臣は新婦の控室にいるらしい。
「衣装合わせとかで、試着姿は見たんだろ?」
瑠既が言っても沙稀の機嫌は直らず、けれど瑠既はあーだこーだと言える楽しい時間を過ごした。
どうせ恭良の姿を見れば、沙稀の機嫌は直るだろうと思っていたからだが、それは予想通りで。あまりに予想通りすぎて、挙式中の瑠既は口角が上がりっぱなしだったほど。
挙式が終わり、瑠既は甲斐甲斐しく沙稀の世話を焼きに行く。誄も傍らに来たが、恭良の歓喜の声が飛べば、瑠既が特別構う必要はない。四人が四人ともにマイペースで、それがいいペースとして回っていく。
お色直しが終わり披露宴に向かうとき、瑠既は沙稀と距離が離れた。それに気づいた瑠既が振り向くと、何やら大臣が沙稀に誰かを会わせている。
フリフリのドレスを着た少女。肩甲骨くらいまであるリラの髪をハーフアップにし、全体的にふんわりとしたウェーブがかかっている。背丈は沙稀の腰元くらいまでしかない。
──誰だ?
わざわざこんなときに大臣が会わせるような人物だ。瑠既も知っているだろうと思ったが、少女の年齢からすれば、瑠既がいなくなったあとに沙稀だけ面識のある人物なのかもしれない。
ただ、仮にそうだとしても腑に落ちず。なぜなら、その少女は十四、五歳くらいにしか見えなくて、沙稀と面識があるにしても不自然な気がした。
「瑠既様?」
甘い声に、香りにドキリとした。誄だ。
「先に着席していてほしいと……行きましょう?」
首肯し、瑠既は付いていく。やさしく解けていく甘い香りは、誄の声ともよく似合う。再会したときから何の香りかと思っていたが、この香りは桃だ。
誄と瑠既は、他の参列者たちと違う入り口から披露宴の会場に入る。新郎と新婦の席と近いが、目立たない場所にあえて座る。ふたりが公の場に姿を現すのは、これが二度目。しかも、一度目が婚約発表のときだ。だからこそ、特に誰かが声をかけくることはないだろうが、瑠既には面識ある人物がひとりだけいる。




