【89】身命を賭して(2)
沙稀が目を開けると、一面の闇が広がっていた。上半身に泉の感覚がなく、左手で探ってみれば、水位は膝までだ。水に触れている感覚はあるが、清めたときのような冷たさはふしぎとない。──そう、意識は懐迂に辿り着いた。
どうせ何も見えないなら目を開けていても仕方ないと、沙稀は瞳を閉じる。一歩、また一歩と歩く。けれど、水の音は聞こえてこない。予想通り、意識だけのこの空間には音が存在しないらしい。精神力の強さを試されているようで、沙稀はフッと笑う。──これごときで平常心を失うほど、生ぬるい想いではないと。恭良への想いは愚か、恭良が向ける想いも揺るがず、疑う余地もない。
沙稀の歩みに迷いはなく、しっかりと進んでいく。
一方、恭良の意識も懐迂に来ていた。周囲を闇に包まれ、何も見えない。けれど、今にも水が口に入りそうなほどに水位が高い。呼吸が必要かの判断をするほど冷静でもいられず、温度は感じないがそれどころでもない。何とか溺れないようにと、精一杯背伸びをして口を水面より上へと向ける。
けれど、このままでもいられない。恭良は思い切って一歩、踏み出す。すると、すっぽりと顔を、頭上を泉で包まれてしまった。
まるで穴に落ちたかのように、足は何にも届かず。それは、どこまでも落ちていくような感覚で──恭良は沈みながら身を丸め、ふと思う。
その水は、不安の強さなのだと。
足がつかないほど深く、落ちていくのは恐怖に溺れそうなのだと。
水が頬を、髪を、腕をどんどんすり抜けていく。どこまでも沈んでいきそうな感覚に陥りながらも、そもそも、どうしてここにいるのかを思い出す。
──ああ、そうだ。
沙稀への強い想いを、いつも差し出してくれるやさしい手を恭良が思い出したとき、ふと、足が地についた。丸めていた体をゆっくりと伸ばし、立ち上がる。
ふしぎな感覚だった。先ほどまでの水位が嘘かのように、腰までしか浸かっていない。
──あの感覚は……私の弱さが感じさせた幻だったんだ。
信じるものを思い出した恭良は、沙稀を想い歩き始める。
視覚も聴覚も失われた状態になり、どのくらいが経っただろうか。時間という概念を失いそうな空間で、沙稀は右手で確かに何かに触れた。それに、沙稀はドキリとした。
ちょうど、そのとき。恭良は何かが右肩に当たった気がした。
揺れていた泉が、一瞬、静まる。──このとき、求める人がそこにいると確信した。
沙稀は更に一歩踏み出し、恭良は右へと体を向け、両手を伸ばし合う。
触れ合う肌と肌は、見えなくとも愛しい人がここにいるという証。抱き合い喜びを分かち合うと、どちらともなく顔を近づけ、ひとつになることを願うように唇を重ねる。
刹那、激しい光に包まれる。ギラギラとした閃光の中、ふたりは互いのやさしい笑みを確かに見ていた。
別々の部屋で、ふたりは同時に瞳を開いた。そこは横になった玉座のようなものの上。先ほどまでの光景が夢ではないと瞬時に判断し、上半身を急いで起こす。白い布で素早く身を隠し、すぐさま部屋の扉を開ける。
扉を開いた先には、相手の入った部屋の方を向いたそれぞれがいて。そこに立っているのは幻ではなく、もちろん姿を持った存在あるもので──感極まったふたりは走り出す。
「沙稀!」
「恭良!」
身を包んでいた白い布が、フワリと飛んだ。互いに手を伸ばし合ったためだろう。
求めさまよった人との再会を心の底から喜び、抱き締め合う。足の力が抜け、その場でしゃがみ込むほど。自然と重なる唇。戻った五感が理性を飛ばす。無心に求め合う幸福に夢中になっていく。幸せは加速し、体を熱くさせ──と、そこへ。
「沙稀様! 恭良様!」
必死に止めようとする大臣の声。その、幼いころから耳にしていた声は、沙稀に正気を取り戻させた。
恭良と一切の隔たりなく密着している現実に、沙稀はのけぞりそうになる。けれど、離れれば恭良の肌を他の男にさらすことになるわけで。沙稀は耳の先まで真っ赤になりながらも、グッと恭良を抑え込むように抱き締める。
「来るな! それ以上近づくなっ!」
恭良の体をさらすなど、沙稀には耐えられない。ただ、その反応は恭良にはおかしかったのか、強く抱き寄せる沙稀の腕の中でクスクスと笑う。──恭良にとって大臣は『男』ではない。沙稀の反応は恭良にしてみれば過剰反応。
沙稀は急激に気恥ずかしさを感じる。こんな状況で、焦っているのは沙稀の方なのだから。
「大臣、すぐに行くから。何もしないから! これから婚儀の支度に行く。だから、安心して待っていて」
沙稀には、恭良を抱き締めながら大臣が去るのを待つしかない。
もし、懐迂の儀式が存在しなかったとしても、沙稀は恭良にバージンロードを歩いてもらうまで、その純潔を守りたいという気持ちがあった。沙稀にとっては、それが恭良に対する誠意だ。
しばらくして、人の気配がなくなったと気づく。念のため沙稀は振り返る。誰もいないと安心したのか、強く抱き締めていた腕の力をゆるめる。
「恭良、ちょっと待っていて」
冷静になっても尚、顔の赤味はひかない。沙稀自身も気づいているからこそ、照れた様子なのだろう。
スッと体を離し半回転してから立ち上がると、まずは後ろに落ちている白い布を拾う。身を隠し、恭良に近づくとそれを頭からかけ、自身は恭良の背後にある白い布を身にまとう。
恭良が頭にかかった布を手繰り寄せたころ、沙稀は背後にいて。恭良は布を身に巻かずに抱きつく。──そんな無邪気なことをされ、沙稀は慌てた。
ただ、慌ててばかりもいられない。次の儀式もまた、ふたりにとって大事なことだ。沙稀は、手際よく彼女の体に布をかける。そうして、愛しさを噛み締めて強く抱き寄せる。
「ね、行こう?」
恭良は沙稀を引き止めるように更に抱きつく。沙稀は更に照れるが──照れて慌てる沙稀を、恭良は決してからかっているわけではない。わがままで甘えても、受け止めてくれる大きな愛を心地よく感じている。こんな状況下でも、欲望に走らず恭良を守ろうとしてくれる彼が、愛おしくてたまらなかった。




