表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
170/409

【89】身命を賭して(2)

 沙稀イサキが目を開けると、一面の闇が広がっていた。上半身に泉の感覚がなく、左手で探ってみれば、水位は膝までだ。水に触れている感覚はあるが、清めたときのような冷たさはふしぎとない。──そう、意識は懐迂カイウに辿り着いた。

 どうせ何も見えないなら目を開けていても仕方ないと、沙稀イサキは瞳を閉じる。一歩、また一歩と歩く。けれど、水の音は聞こえてこない。予想通り、意識だけのこの空間には音が存在しないらしい。精神力の強さを試されているようで、沙稀イサキはフッと笑う。──これごときで平常心を失うほど、生ぬるい想いではないと。恭良ユキヅキへの想いは愚か、恭良ユキヅキが向ける想いも揺るがず、疑う余地もない。

 沙稀イサキの歩みに迷いはなく、しっかりと進んでいく。


 一方、恭良ユキヅキの意識も懐迂カイウに来ていた。周囲を闇に包まれ、何も見えない。けれど、今にも水が口に入りそうなほどに水位が高い。呼吸が必要かの判断をするほど冷静でもいられず、温度は感じないがそれどころでもない。何とか溺れないようにと、精一杯背伸びをして口を水面より上へと向ける。

 けれど、このままでもいられない。恭良ユキヅキは思い切って一歩、踏み出す。すると、すっぽりと顔を、頭上を泉で包まれてしまった。

 まるで穴に落ちたかのように、足は何にも届かず。それは、どこまでも落ちていくような感覚で──恭良ユキヅキは沈みながら身を丸め、ふと思う。

 その水は、不安の強さなのだと。

 足がつかないほど深く、落ちていくのは恐怖に溺れそうなのだと。

 水が頬を、髪を、腕をどんどんすり抜けていく。どこまでも沈んでいきそうな感覚に陥りながらも、そもそも、どうしてここにいるのかを思い出す。

 ──ああ、そうだ。

 沙稀イサキへの強い想いを、いつも差し出してくれるやさしい手を恭良ユキヅキが思い出したとき、ふと、足が地についた。丸めていた体をゆっくりと伸ばし、立ち上がる。

 ふしぎな感覚だった。先ほどまでの水位が嘘かのように、腰までしか浸かっていない。

 ──あの感覚は……私の弱さが感じさせた幻だったんだ。

 信じるものを思い出した恭良ユキヅキは、沙稀イサキを想い歩き始める。




 視覚も聴覚も失われた状態になり、どのくらいが経っただろうか。時間という概念を失いそうな空間で、沙稀イサキは右手で確かに何かに触れた。それに、沙稀イサキはドキリとした。

 ちょうど、そのとき。恭良ユキヅキは何かが右肩に当たった気がした。

 揺れていた泉が、一瞬、静まる。──このとき、求める人がそこにいると確信した。

 沙稀イサキは更に一歩踏み出し、恭良ユキヅキは右へと体を向け、両手を伸ばし合う。

 触れ合う肌と肌は、見えなくとも愛しい人がここにいるという証。抱き合い喜びを分かち合うと、どちらともなく顔を近づけ、ひとつになることを願うように唇を重ねる。

 刹那、激しい光に包まれる。ギラギラとした閃光の中、ふたりは互いのやさしい笑みを確かに見ていた。


 別々の部屋で、ふたりは同時に瞳を開いた。そこは横になった玉座のようなものの上。先ほどまでの光景が夢ではないと瞬時に判断し、上半身を急いで起こす。白い布で素早く身を隠し、すぐさま部屋の扉を開ける。

 扉を開いた先には、相手の入った部屋の方を向いたそれぞれがいて。そこに立っているのは幻ではなく、もちろん姿を持った存在あるもので──感極まったふたりは走り出す。

沙稀イサキ!」

恭良ユキヅキ!」

 身を包んでいた白い布が、フワリと飛んだ。互いに手を伸ばし合ったためだろう。

 求めさまよった人との再会を心の底から喜び、抱き締め合う。足の力が抜け、その場でしゃがみ込むほど。自然と重なる唇。戻った五感が理性を飛ばす。無心に求め合う幸福に夢中になっていく。幸せは加速し、体を熱くさせ──と、そこへ。

沙稀イサキ様! 恭良ユキヅキ様!」

 必死に止めようとする大臣の声。その、幼いころから耳にしていた声は、沙稀イサキに正気を取り戻させた。

 恭良ユキヅキと一切の隔たりなく密着している現実に、沙稀イサキはのけぞりそうになる。けれど、離れれば恭良ユキヅキの肌を他の男にさらすことになるわけで。沙稀イサキは耳の先まで真っ赤になりながらも、グッと恭良ユキヅキを抑え込むように抱き締める。

「来るな! それ以上近づくなっ!」

 恭良ユキヅキの体をさらすなど、沙稀イサキには耐えられない。ただ、その反応は恭良ユキヅキにはおかしかったのか、強く抱き寄せる沙稀イサキの腕の中でクスクスと笑う。──恭良ユキヅキにとって大臣は『男』ではない。沙稀イサキの反応は恭良ユキヅキにしてみれば過剰反応。

 沙稀イサキは急激に気恥ずかしさを感じる。こんな状況で、焦っているのは沙稀イサキの方なのだから。

「大臣、すぐに行くから。何もしないから! これから婚儀の支度に行く。だから、安心して待っていて」

 沙稀イサキには、恭良ユキヅキを抱き締めながら大臣が去るのを待つしかない。

 もし、懐迂カイウの儀式が存在しなかったとしても、沙稀イサキ恭良ユキヅキにバージンロードを歩いてもらうまで、その純潔を守りたいという気持ちがあった。沙稀イサキにとっては、それが恭良ユキヅキに対する誠意だ。


 しばらくして、人の気配がなくなったと気づく。念のため沙稀イサキは振り返る。誰もいないと安心したのか、強く抱き締めていた腕の力をゆるめる。

恭良ユキヅキ、ちょっと待っていて」

 冷静になっても尚、顔の赤味はひかない。沙稀イサキ自身も気づいているからこそ、照れた様子なのだろう。

 スッと体を離し半回転してから立ち上がると、まずは後ろに落ちている白い布を拾う。身を隠し、恭良ユキヅキに近づくとそれを頭からかけ、自身は恭良ユキヅキの背後にある白い布を身にまとう。

 恭良ユキヅキが頭にかかった布を手繰り寄せたころ、沙稀イサキは背後にいて。恭良ユキヅキは布を身に巻かずに抱きつく。──そんな無邪気なことをされ、沙稀イサキは慌てた。

 ただ、慌ててばかりもいられない。次の儀式もまた、ふたりにとって大事なことだ。沙稀イサキは、手際よく彼女の体に布をかける。そうして、愛しさを噛み締めて強く抱き寄せる。

「ね、行こう?」

 恭良ユキヅキ沙稀イサキを引き止めるように更に抱きつく。沙稀イサキは更に照れるが──照れて慌てる沙稀イサキを、恭良ユキヅキは決してからかっているわけではない。わがままで甘えても、受け止めてくれる大きな愛を心地よく感じている。こんな状況下でも、欲望に走らず恭良ユキヅキを守ろうとしてくれる彼が、愛おしくてたまらなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ