【11】忠誠の(1)
意識が途切れ、そこで一度命尽きたようなものだ。
気づいたときに体はいうことを聞かず、生きているのを呪ったことさえある。それでも、生きた。望みなど見出せない状態でも。
体が動くようになって、絶望はやってきた。何もかも失ったと知った。
意識を失う前に見たのは、私腹を肥やそうとする薄汚い瞳。人を人として見ない、欲にあふれた口元だった。──偽りの王だ。
押さえられ、必死に抵抗し、間近で顔を見たから間違いない。
「名前を変えましょう」
やっと動けるようになって、大臣に言われた言葉だ。意識を取り戻して、二年が経っていた。
傭兵になるよう提案してきた大臣の言葉は、ただ耳を通過した。──拒否はしたくてもできない。身分を証明できるものはないのだから。
クロッカスの色彩だった髪と瞳は、その色彩を失っていた。クロッカスだと思っていた色彩は、いつの間にかリラに変わっていたのだ。目を疑い、何度鏡を見ても、色彩が戻らない。信じられなくても、それが現実だった。
母から継承者として引き継いだ物事も、クロッカスの色彩がなければ誰が聞く耳を持つだろう。
──もし、双子の兄がいてくれたら。
双子だという証明は、化学がしてくれるだろう。兄と双子だと証明されれば、身分を証明できるのに。
沙稀が目覚めたとき、大臣から酷な報告はいくつも淡々と告げられた。そのひとつが、双子の兄の行方不明だ。
身分を証明できるものは残されていない。それはつまり、鴻嫗城に身を置くことは許されない。
大臣の提案は、事態を逆手に取っての提案だ。
争いの絶えなかった梛懦乙大陸。傭兵には身元不明となった戦争孤児が多くいる。沙稀も同様に鴻嫗城の傭兵として手続きを踏めば、鴻嫗城に身を置くことができる。そういう意味では、沙稀がクロッカスの色彩を失ったのは好都合だった。
それに、命を落とさずに生きていると知れば、王は再び命を狙うだろう。だからこそ、体を動かせるようになるまで──。
王が沙稀の命を狙った理由は、入籍しないまま紗如がこの世を去ってしまったからだ。紗如の血を継ぐ者がいれば、王はその座を退かなければならない。いや、入籍していないと知っている者は、すべて排除しない限り、王は王として君臨していられない。
確かに、大臣の案は名案だった。ただ、首を縦にするのは難しい。屈辱の他ならない。──だが、断れない提案だ。それしか術がないのだから。
けれど、沙稀は返事をしなかった。固く口を閉ざす。
それにも関わらず、大臣は別の名を言うようにと、新たな名を告げた。
傭兵になるには、王に面を通さなければならない。当然、名乗ることになる。──沙稀と名乗れば、自ずと王に生き延びたと気づかれてしまう。
名を変えるのは、この案に乗るなら必須だった。
大臣に連れられ、赤紫の絨毯を歩いた。大きな扉は開かれ、奥に数段の階段を認める。更にその奥の玉座に座る、憎き者の姿も。
「新しく配属されたと聞いた。……が、まだまだガキじゃないか。名は何という?」
リラの長い髪を見て、王は見下した声を出す。
屈辱、そのものだ。──それでも、まだ沙稀が自暴自棄にならずに済んだのは、父の持っていた色彩だったから。誇り高き剣士の姿を、絵画の中の姿をずっと目に焼き付けていたから。剣を握った日から、揺るがない目標の人。
名を問われて、沙稀は迷う。鴻嫗城で生きていきたいから。
「おや? 話せないのかな」
笑い声の混じった、大嫌いな声。──その声は、父さえも侮辱しているように聞こえ、我慢はできなかった。
「……稀です」
震えを抑えようと、グッと手を握る。
意識を失う直前に見た、王の顔は離れない。正直、目覚めてから二年が経ったとはいえ、恐ろしい。──けれど、沙稀は恐怖を抑え、王を見上げた。
それは、決して屈しないという覚悟。そして、唯一残った誇りを口にする。
「沙稀です」
──捨てられない、名前だけは。
いや、望んで捨てたものなど、何ひとつなかった。
王は目を見開く。
「世良ッ! 貴様というヤツは……」
「出ていけ! 早く!」
王が大臣を裏切り者と睨む。大臣は王に向かい、剣を抜いた。
沙稀も剣を抜こうとした瞬間、大臣は王に背を向けた。そして、すばやく沙稀に蹴りを入れる。
「私の言うことに、大人しく従えないのなら……居場所は愚か、命はありませんよ」
凍りつくような冷たい視線。何度も──意識を取り戻してから、大臣に向けられてきた視線だ。
偽名を言わずに名乗った。大臣に逆らい、案を台無しにしたも同然だ。今回こそ沙稀は従う他なかった。大臣に蹴られた腰をかばい、王の間の扉に向かって必死に歩く。
大人しく従った沙稀の姿を見てか、大臣は再び王に向き合う。
「紗如のご子息が存命していると知られてしまったのは不都合ですが、この鴻嫗城は貴男の自由にはさせません。断じて」
まだ大臣の言葉は続いたようだったが、沙稀は退室する。
──偉そうに。お前の自由にもさせてたまるか。
と、悔しさを噛み締めて。
それから五年間、沙稀は臆することなく戦いに身を投じるようになる。その姿はまるで死を恐れていないと囁かれるほどだった。いつでも自ら業火に飛び込んでいく姿は、やがて大陸中から恐れられるようになっていく。
恭良の護衛に就任したのは、そんなときだった。──そして、大臣との師弟関係は終わりを告げた。
長い長い師弟の呪縛は解き放たれ、それからだ。大臣は紗如がいたころのような表情を時折、沙稀に向ける。つい、沙稀の時間は戻ってしまって、一瞬だけ間が生まれてしまう。
──大臣は無意識だ。だから、こちらも気づかぬふりをしよう。
それが、沙稀の結論だ。
沙稀が恭良の護衛に就任した十四歳のころ。
あのころは恭良に対する忠誠心など欠片もなかった。むしろ、王への憎悪で恭良を逆恨みしていたというべきか。




