【87】誰のため
聖水の質問に、忒畝の思考が止まる。──『あの子』とは、誰のことを示しているのか。咄嗟に見当が付かない。聖水の関わってきた人物を思い出して当てはめてみても、一致する人物はいない。悠穂のことかと思考を巡らせている最中、ピタリと一致する人物が浮かぶ。それは、忒畝が聖水に忘れていてほしいことだった。
忒畝は立ち上がり、聖水から視線を逸らす。
「君はもう忘れなさい。君は……今、このときから新しく生きる人なのだから」
「でも……」
諭すような温和な口調に対し、聖水は異論を言おうとした。しかし、続かなかった。恐らく、『言葉』として成立させられずにいるのだろう。けれど突然、忒畝の驚くことをはっきりと言う。
「私、貴男が好き」
じわりと変な汗をかく。──これではまるで、行動に嘘はなかったと言われているようなもの。単に竜称が背中を押して応援してくれたと言いたげな印象さえ残す。ただ、忒畝には受け入れる気はない。受け入れる方が容易く、選ぶのも楽だが、聖水には不誠実なことだ。
聖水には、理性も倫理もない。だから、ゆっくり向き合いながら教えていく。忒畝は、そう決めている。
「よく、聞いてね」
再び忒畝は聖水と目線を合わせる。
「たぶん、その気持ちは錯覚だよ」
やわらかい口調で包まれた言葉は、聖水を通過していったのか。聖水は、何を言われたのか、わからないようだった。
「まだ、あるの? 記憶のすべて」
ぼんやりしている聖水に、忒畝は悲しそうに聞く。すると、聖水まで悲しそうにして目を伏せた。
「記憶……記憶が私」
そう言われてしまっては、忒畝は言い返せない。母を前にしたとき、『刻水』か『聖蓮』かを判断したのが、記憶だからだ。聖水の記憶を否定することは、聖水をも否定することになり兼ねない。
「聖水、あのね……君の記憶自体を悪いと言っているわけじゃないんだ。その……」
非常に質が悪い。露骨な表現をするのなら、忒畝は被害者だ。それなのに、加害者である聖水には過失がない。
聖水は単純に忒畝が好きで、純粋に動物として好きだと伝えただけのようだ。そう、例えるなら野生動物そのもの。
野生化は、何となく想定していた。育った環境が環境だ。だからこそ忒畝は、聖水を責めようとは思わない。ただ、できれば今後のためにも、恋愛感情ではなかったことにしておきたい。
「生き物には、体の仕組みとして欲求を満たしたいときがある。だから、もう過ぎたことを僕はどうこう言おうとは思っていない。ただね、欲求と心は別のものだよ。聖水はそれが混ざってしまっただけじゃないかな」
「違う……」
呆然と聞いている聖水が、短い言葉であってもきっぱりと否定する。──これには、忒畝がずっしりと重さを感じた。
甘かった。もっとかんたんに聖水は操作できるかと思っていたが、そうではないらしい。克主と刻水の娘だと考えれば、頭が切れるのも納得がいく。無知であっても、無能ではない。
聖水とゆっくり向き合おうと思っていたつもりが、忒畝の打算的な部分がどんどん露わになっていく。
「あんな関係を持ってしまったんだ、錯覚するよ」
「それだけ、違う。私は忒畝好き」
「勘違いだと忘れてしまった方が聖水のためだ」
「そんな言い方……するの、ね」
グッサリと胸に刺さる。一先ず、打算的な部分は置いておくにしても、忒畝は聖水がこれからひとりの人として生きていけるようにと願っていた。
それは、まず聖水がいなければ、忒畝が無事に産まれてくる確率が大幅に低かったこと。こうして今でも、これからも生きられる時間はなかっただろうこと。それらに対する感謝が大きい。
次に、産まれるべく時代に聖水が誕生できなかったこと。両親にきちんと育ててもらえなかったということもある。竜称は我が子以上に愛情を持ってかわいがったのだろうが、今の聖水は、人として生きられる教育は受けていない。
聖水が誰の子かと知ってから、忒畝には犠牲の上に自身の今があるとしか思えなくなった。もちろん、これは感情論だ。
刻水が封印から目覚めなければ、そもそもどちらも産まれていないかもしれない。それ以前に、封印の時期がずれていたのなら、聖水は正しい時代ですぐに命尽きていたのかもしれない。──そう、たらればならば、いくらでも、どんな可能性でも無数に存在する。正論は存在しない。存在するなら、現状の一択だけだ。
忒畝が打算的なのは、元々だ。聖水に限定されたことではない。何より、忒畝自身が己の性格をよくわかっている。──わかっている、つもりだった。
論理や理論を軸に考察する忒畝が、一点だけを注視している。
ひとつ間違いのまま検討していたのだから、違う結果が出ているだけなのに、そこに気づけない。結果、浮き出た醜態に自己嫌悪して、とどまっている。──こんな忒畝は、珍しい。
「会いたい、あの子に」
いつの間にか、聖水は目を細めてボロボロと泣いている。わんわん泣き始めた聖水に、忒畝はかけてあげられる言葉がない。何を言っても、更に泣かせてしまいそうで。忒畝が黙っていると、驚くことに聖水がつかみかかってきた。
「私が産んだ! 会せてよ!」
やはり、一瞬でも起きたのか。そうでないにしても、聖水には妊娠していた自覚があっただけかもしれない。
忒畝は数時間だけ手の中にあったぬくもりを思い出す。ぬくもりが消えていったときのことも。
「無理だよ」
会わせてあげられるなら、会わせてあげたい。
「何で!」
ヒステリックに叫ぶ聖水を目の前に、忒畝はポカンとする。同時に、そうかとも思って。
「何も知らないのか、君は……」
何と言うべきかと、戸惑う。何と言っても、聖水は悲しむだろう。ならば、せめて結果を伝えようと決める。
「もう、いないんだ。……奇跡だったよ」
スルスルと聖水の手がゆるんでいく。力が失われた手は、パタリと落ちた。
「そんな」
うなだれながら聖水は放心状態で涙を落とし続ける。
「会いたい……」
呟きがもれる。
忒畝は聖水から視線を逸らし、奥歯を噛み締める。
──何が本当に、『聖水のために』なる?
消えたはずのちいさな命が、忒畝に倫理と理論を戻す。何かを決意した忒畝は、聖水の腕をつかみ、部屋から連れ出す。
研究所内を通り過ぎ、玄関を出る。
「どこ……行く……」
「会わせるよ」
戸惑う様子の聖水に構わず、森をどんどん歩いていく。
黙々と歩き辿り着いた先に、ちいさな墓石が見えてきた。忒畝は立ち止まり、何も告げない。だが、聖水は墓石を見て駆け出す。
聖水は墓石を抱き締め、すがりつくかのごとく泣き崩れていく。
墓石の前で、ふたりは『父』と『母』だった。




