【85】神の血を受け継ぐ者(2)
産まれたばかりの赤ん坊は、泣き叫ぶことしかできず、自らの意思は見せない。動くこともままならない。赤ん坊とは、そういうものであるにも関わらず──行動が、赤ん坊のそれではない。まるで、忒畝の反応を感じ取ったかのような反応を、視界の中の個体はとっている。
──まさか。
忒畝は青ざめる。脳の発達は異常なまでに進んでいるのではないかと。生命維持に使われる範囲まで、思考に割り当てられるとしたら──それはないとは、断言のしようがなくて。
カーテンが、手からすり抜けた。
──僕は、愚かだな。
必死に動く姿を見て『何を恐れていたのか』と、忒畝は歩いていき、後ろ姿に手を伸ばす。
背中から抱き上げると、安心させるようにハンカチで包む。両手にすっぽりと収まる個体と向き合えば、アクアの恐怖はそこになく──忒畝は微笑む。そして、ずっと言えるときはこないと諦めていた憧れの一言をやさしく囁いた。
すると、アクアの大きな瞳はうれしそうに目を細めて。大きな雫が忒畝の腕を伝う。忒畝の眉が八の字に変わって、口元は歪んで。でも、まなざしは変りなく。頭部を支える右手の指でなでるようにゆっくり動かせば、手のひらの上の個体が流す雨は止んでいく。
忒畝は充忠に今日一日の自由を要望する電話をかけた。充忠には、これまでのことを未だ話せていない。だから、
「明日、話すから。今日は何も聞かないで」
と告げる。充忠は異論を唱えなかったが、忒畝には罪悪感が重なった。
しかし、手の中には限られたわずかな命がある。何日でも何年でもと願ってみても、叶わないであろう命だ。
医療を施せる限り施し、延命する選択肢もあるだろう。見せたい景色を見ながらともに過ごす選択肢もあるだろう。どちらを選ぶにしても、忒畝にとっては自身のエゴだ。
「お出かけしよっか」
忒畝は優雅に歩いていく。その姿は、研究所内で多くの者に目撃されるが──大事なものを守るように、何かを両手で抱えているようだと見られたが──誰も、忒畝が我が子を抱いているとは思いもしなかった。
研究所を出た忒畝は、森の中をゆっくりと歩いていた。鳥がきれいだね、風が肌をなでて気持ちがいいね、木が会えて喜んでいるよ、と話しながら。
「君はね、僕への『神からの褒美』だ。永い間僕は願い、憧れていた」
ポツリ、とこぼれる忒畝の懺悔。
「『父親』になること。その願いが叶えられたんだ」
感謝。
「本当は僕が君のように、数日しか生きながらうことができなかったのだと思う」
後悔。
「君は、僕だよ」
言い尽くすことはできないほどの、
「僕の苦しみだけを抱えて生まれてきた存在なんだ」
感情があふれていく。
──僕は、どんな『父』になれるだろう。
漠然と描いてきた先に思い出すのは、どれもこれも泣きたくなるほどの愛情ばかりで。
──僕には父さんが憧れだったように、少しでもやわらかい思い出を。
ちいさなちいさな体に宿った命に残せるようにと願う。
ひかりを。
よろこびを。
あいを。
この──神の血を継ぐ子に、祝福を。
やがて辿り着いた先は、忒畝の一番大事な人に会える場所で。
「父さん、僕の息子なんですよ」
照れて笑って、恥ずかしさとうれしさが入り交ざる。
山頂は風が少しだけ冷たくて。寒いね、と言っては首に巻いていたストールを外して息子に巻く。壮大に広がる景色を見せ、いくつもの花を見せ、土を触らせ──次第に力強さが指に、腕になくなっていると気づく。
「君の苦しみは伝わる。でもね、君の喜びも伝わってくる」
言葉をかければ、眠そうなアクアの瞳は大きく開く。そうして、まぶたが少しまた下がる。
「わかるよ、君の笑顔が」
忒畝は懸命に話しかけるが、純粋に喜びだけでは笑えない。苦しみが、想像を絶するだろうと様子から察することができて。
安らかにと願うなら、黙って見守ることがいいのかもしれないと思いつつも、伝えたいことがありすぎる。
「ぬくもりは、この手から消えることはないだろうな」
『逝かないで』、『生きていて』、『もっと見て』、『目を開けて』──どれをどう選んでも、口にはできない言葉ばかりだ。それに、何よりも伝えたい言葉は、それらではない。
見送るときには、何よりも伝えたい言葉を言うのがいい。そういえば、父も、母も、同じ言葉を最期に口にしていた。
「愛しているよ」
何をもって、『生まれた』と言うべきか。
何をもって、『生きていない』というべきか。──忒畝の手の中の存在には、あまりに曖昧だ。
『生まれた』ことを『呼吸した』と定義するなら、このちいさな命は『生まれていない』。
『動いていない』ことを『亡くなる』と定義するなら、このちいさな命は『亡くなった』。
けれど、これでは定義が成立しない。
『生まれていない』のに、『亡くなった』とは定義できないからだ。
「父さんが亡くなったときの、大きく空いた胸の穴を埋めるほどの、大きな愛を……」
──ありがとう。
声にならぬ感謝を忒畝はし、しばらくしてから山を下りていく。向かう先は決まっている。生家だ。
生きている間は、たとえ有限であるとわかっていても、また明日がやってきて日々は繰り返されると頭のどこかでは思っている。短命だと認識している忒畝も例外ではなくて、けれど、こんなにも短く終わった命に『自分の命の期限』はいつかと、意識が向く。
──僕に残された時間は、長くてもあと十年だろう。
残っている時間には、どんな意味があるのだろうか──四戦獣の柵と向き合い続け、女悪神の力から母と妹を解放した『これから』。
十年は、これまで忒畝が生きてきた歳月の半分だ。長いようだが、短い。その事実を、忒畝はちいさな亡骸を抱えながら噛み砕いていく。




