【85】神の血を受け継ぐ者(1)
静まり返った場の収束は、充忠が悪いという事態になり兼ねなくなり。しかし、充忠は、それを甘んじて受ける。
「悪かった。なるべく早く謝りに行く」
そうして、蒼然とした空気は通常に戻り。忒畝は充忠に『ごめん』と『ありがとう』と言う。それと──。
「仕方ないね。まだまだ幼いから。悠穂にはまだ受け入れられずに、悲しみを誰かにぶつけるしか……なかったんだよ」
とも付け足して。
悠畝の葬儀が終わり、翌日になって悠穂は忒畝に謝ってきた。『お兄ちゃんの方が辛かったのに、ごめんなさい』と。『僕の方が、じゃない。兄妹なんだから、同じだよ』と、忒畝は返した。
二年が経っても、父が亡くなったときを思い出すのは、忒畝にとって辛いことだ。それでも、ずっと『母に会いたい』と思い続けてきた悠穂にとっては、父のときよりも辛いかもしれないと、忒畝は妹を想う。
悩みながら悠穂の部屋に着き、窓の前に立つとカーテンを開ける。明るい陽射しが室内に入っても、未だ悠穂は眠り続けている。
忒畝は悠穂の寝顔を眺める。早く目覚めてほしいと願いながらも、焦らなくていいとも思う。何より願うのは、万全な体調で目覚めてくれることだ。健康管理をしてきて、よい方向に向かっていると数値が示している。数字は嘘をつかないのだから、忒畝は信じて待つよりほかない。
信じているのに、万が一目覚めなかったらと想像するだけで、何よりも怖い。静かに頭をなでる。大丈夫だと己に言い聞かせるように──。
しばらくして、忒畝は悠穂の部屋をあとにする。忒畝には、もう日課になりつつあることだ。これから向かうのは、『龍声』の部屋。──あれから毎日、悠穂と彼女の部屋に行き、カーテンの開け閉めを忒畝が行っている。
カーテンを開けて、眠り姫に今日が始まっていると告げる。彼女のことは、どう接していくか模索中だ。思案していても悪夢を思い出してしまって、もうひとつのことを優先して考えるべきだと思考が中断する。
ふうとため息が出て、ふと、日が差し込んだベッドを見る。──そこで、忒畝は意外なものを目にした。
『彼女』の意識は戻らないまま、そこにはちいさな命が産み落とされていた。
頭の中だけで理解していることと、実際に目で見るのとは、『理解』という言葉に激しく差が生じる。忒畝も二十年生きてきたのだから、経験はある。けれど、目の前の事例については、別枠だった。
生きる機能を持たない異形──その数文字からの推測は、いくつも展開された。例えば、『生きる機能』。生きるには呼吸が必要であり、それには空気を吸い、二酸化炭素を吐く器官、言い換えれば鼻や口が必要であり。吸った空気を必要なものと不必要なものに分ける臓器、言い換えるなら肺が必要であり。更に言うなら、必要としたものを体中に巡らせる血管、血液が必要である。また、エネルギー補給が必要だ。補給を行うなら、消化と排出する機能も必要で──生命の維持に最低限必要なものだけでも例を上げれば次から次へと上がってくる。
当たり前だ。進化の過程で、不必要なものを人間は捨てている。基本的には体のすべての機能が必要だ。
仮に、生きる機能を持たない異形が産まれたとして。言い換えるなら、生きることのできない生命体と言えるだろう。生きることのできない生命体──それは、短命で生を受けた忒畝自身にどことなく似ているように思えて『苦しむだけの命は、自分だけでいい』と諦めがついた。
ただ、ここまではきれいごとだけを並べたものだ。本音はここにとどまらない。尚且つ、『異形』という二文字に続く。
呼吸と摂取が否定されるのであれば、高確率で口と鼻はないのだろう。異なる形と表記するくらいなのだから、あっても大きさが異なったり、数が違ったりすることもあるということだろうか。──忒畝の想像は膨らみ、恐怖へと変わる。
人は誰でも得意と不得意があって、個性も混ざっている唯一のものなのに、『普通』とか『標準』という言葉が存在して、そこからはみ出すことを誰もが恐れる。『遅い』と言われたり、口に出されなくてもそういう目で見られたり、あるいは『評価』に変わる。『できない』、『違う』は『烙印』に変わることもある。
成長期を迎えるのが遅かった忒畝には、度々感じたことで。気にしない素振りをしたとしても、隠しきれるものではなく。現に、充忠と衝突したことがあった。
女悪神の血を継いでいることが、自身にはどういうことを知ってからは尚更だ。ただでさえ、血の色が違う。これだけでも知られたくないと忒畝は生きてきたのに、『生きる機能を持たない異形のみが産まれる』と見て──忒畝は、欠陥品と烙印を押されたような気がした。
本音を言えば、見るのが恐ろしい。『生きる機能を持たない異形』と『我が子』がイコールになるのが、忒畝には恐ろしくてたまらないという思念が残る。
忒畝は父に憧れていた。父、悠畝といえば、いつも忒畝をそばに置いて。笑いかけてくれて、話しかけてくれて、愛していると言ってくれていた。そんな父のようになりたいと願っていた忒畝が、『我が子』を目の前にしたとして、父のようになれるのかと想像したときの答えは、否だった。
むしろ、想像したのは真逆に位置するような人物像で──そういう人物に、忒畝はなりたくないと想像した自分自身に絶望し、ひどく拒絶した。
だから、この日がくるのを受け入れなくてはと思いつつも、何とか回避できないものかとも思っていた。妊娠期間は一般的な長さのおよそ半分で、半年くらいと算出していたが、どうやら考えが甘かったらしい。通常の妊娠でも早産があるのだから、今日がその日になってもおかしくはなかったわけで。ましてや、『龍声』の現状を視野に入れれば想定はできたはずだった。
『龍声』が子どもを産むその一時だけ意識が戻ったのかは、わからない。無意識でも本能が働いたのかもしれない。それに、いつだったのかと考えるなら。匂いで感知できなかったのだから、もしかしたら忒畝がカーテンを開けている最中だったのかもしれない。
ジッと大きなアクアの瞳が忒畝を見ている。忒畝は、その視線から離れることができなくて、カーテンの端を藁にもすがる思いで握っていた。
個体としては、ちいさな存在だ。忒畝の拳に例えるなら、ふたつ分ほどの大きさだろうか。超低出生体重児と言って間違いないだろう。
外見は、忒畝の展開した推測が正しかった。
呼吸する器官が顔の部分に見当たらない。ふたつあるはずの目はひとつしかなく、大きさはふたつ分で位置は中央にある。それに、ふたつあるはずの脚も──胴体を束ねているかのごとく、一本しかなく。足らない足を補うかのように、腕は倍ある。
アクアは忒畝にとっては、恐怖の色だ。幼少期に自らの血の色に怯えた色彩。大きな大きな恐怖の色に呑まれそうになり、忒畝は呼吸をするのが精一杯だった。
すると、ちいさな指が動いた。シーツをつかんで、またつかんで、体の向きが変わっていく。それはまるで、忒畝の視界から逃れようとしているようで──アクアの瞳から放たれて、忒畝はようやく酸素が行き渡った気がした。
一番に感じたのは、何とも言い表せないおかしさだ。忒畝は冷静になろうと努める。違和感を突き止めるために。そうして、ああ、と腑に落ちる。




