【83】印象
凪裟が梓維大陸、羅暁城の城下町に着いたのは、鴻嫗城を出た翌日の昼過ぎだった。
荷物を持ち船から降りると、誰かが近づいて来ていると気づく。日差しの中にいたのは、捷羅だ。
「来てくださり、ありがとうございます」
凪裟が思った通り、捷羅は船着き場にいた。いや、思っていた以上だ。まさか、降りた瞬間に近づいてくるとは想像もしていなかった。
捷羅はスルリと荷物を持つ。紳士な対応に凪裟が驚いていると、捷羅は控えめに微笑んだ。
「本当に……よかったのですか?」
「はい」
凪裟がにっこりと笑って言うと、捷羅はうれしそうに頬をゆるませる。
「必ず、貴女を幸せにいたします」
捷羅が頭を下げる。その言動に凪裟は驚いたが、とてもうれしかったのも事実で──つい、目の前にある耳元に囁きかける。
「一緒に、です」
捷羅からすれば、唐突なことに鼓動が飛び跳ねただろう。顔を上げた捷羅には、驚きが張り付いていた。
そんな捷羅を見て、凪裟はますますうれしくなる。だからこそ、口角は勝手に上がる。
「貴男と私と、ふたりで幸せになるのです。一緒に幸せになりましょう?」
次の瞬間、凪裟には何が起こったのか、よくわからなかった。体がグッと引き寄せられて──気づけば、捷羅に強く抱き締められている。
「はい」
今度は、凪裟の耳元でしっかりと捷羅の声がする。
ドキドキしながらも、凪裟はフワフワした気持ちになって、幸せだなと笑みがこぼれる。それは、捷羅が腕をゆるめて離れてからも続いて。差し出された手を今度は凪裟がしっかりと握る。すると、城下町からは拍手が沸き起こり、凪裟は大勢の前で抱き締められたと気づいて顔から湯気が出そうになった。けれど、捷羅は、ただただうれしそうに笑っていて。それは、これまでの笑顔とはどこか違うように見えて──ああ、そうだ、と余計に心が満たされていく。
今の彼には、普段の作り笑顔は浮かんでいない。心の底から、自然とあふれる笑顔だ。凪裟は、もうおとぎの国の義母を恐れない。捷羅が以前、守ってくれたというのもあるが、これからもそばにいてくれるのだから。
凪裟は羅暁城を見上げて誓う。捷羅とふたりで、必ず幸せになると。
羅暁城に着き、貊羅の部屋に向かっているときだ。見知っている人物を見かけて、凪裟は声をかけようとした。
「羅……」
けれど、呼べなかった。相手が気づいて投げてきた視線が、あまりにも知っている人物とは違いがありすぎて。ザワザワと、凪裟の胸が警告を鳴らす。
「どうしましたか?」
捷羅は、羅凍に気づかなかったのだろうか? いや、それはないだろうと、凪裟は慌てて首を振る。
「羅凍にあいさつをしようと思ったんですけど……忙しいみたいだったので」
捷羅は、ふしぎそうに聞いていたが、
「ああ、あちらが父の部屋ですよ」
と、羅凍のことには触れない。
「はい」
凪裟は笑顔で返事をしても、ふと、振り返ってしまう。──そこには、すでに羅凍の姿はなく。けれど、見間違いではなくて。
もしかしたら羅凍は、自宅ではああいう態度なのかもしれないと流そうとする。捷羅が自然な表情を見せてくれたように、羅凍にも不自然な態度をとっているときがあるのだろう。人には事情が色々あると思ってみても、凪裟にとっては意外でもあった。
──あの、羅凍が……ね。
真顔をすることがあるのかと思うくらい、羅凍は笑ったり、怒ったりと表情が忙しく変わる印象の強い人だったから。
一方の羅凍は、ようやく母から解放されていた。予感は的中していて、やはりというか婚約の話を一方的に話されて──意見は一切聞かれなかった。
案の定、愬羅の機嫌は最悪だった。けれど、何を言われたところで、辛いと感じることはなく。感覚がなくなった、そんな状態で何を言われようが淡々と了承の返事を繰り返した。
抵抗する意味がない。『はい』と『わかっています』を繰り返しても、愬羅の不機嫌は増すばかりだったようで、長い長い拘束だった。
「はあ……」
ため息がもれる。これから、部屋の片付けをしなくてはならない。
翌日から、衣装合わせや打ち合わせで捷羅と度々、ふたりきりになる機会が増えた。羅凍からすれば、捷羅はずいぶんと幸せそうに笑っていて。対照的な様子に腹が立ち、羅凍は皮肉を言う。
「で、どうして俺までこの『結婚ブーム』に乗らされるわけ?」
「また婚期を逃したら羅凍だって嫌でしょ? だからじゃない?」
嘘を言え、と言いたくなる。捷羅は知っているはずだ。いや、貊羅が倒れたと聞いたときには、すでに羅凍の結婚が進められると知っていただろう。
そうとなれば、捷羅は羅凍が結婚しないといけなくなった原因を知っているはずだ。──凪裟は、子宝には恵まれない。そうでなければ不自然としか言えない状況がある。
「どうして、同じ日に結婚するの。しかも、大陸を閉鎖してまで」
「ん? ああ、羅凍、よく似合っているね。それにすれば? 玄さんも、きっと喜ぶ」
話を聞こうとしない。つまり、図星だ。だからこそ、嫌味は出るもので──。
「どれにしたって同じだよ。俺にとっては死に装束だ」
けれど、それを聞いて捷羅は笑う。
「結婚って、一度リセットするような儀式でもあるからね。確かに、そうかもね」
「それ、女の人にとったら……という話じゃないの?」
うんざりと羅凍が返答しても、捷羅はクスクスと楽しそうに笑って新しい衣装に手をかける。
「今、着ているのにしたら? 兄上も、それがよく似合っているよ」
無関心に言ったものの、捷羅は本気と受け取ったようで、
「ああ、それじゃあ……」
と、何やら忙しそうに歩き始めた。
ほどなくして、捷羅と凪裟の、羅凍と玄の婚約が公表された。けれど、招待状は沙稀の手にも、忒畝の手にも届かなかった。
その後、いつの間にか捷羅と凪裟の、羅凍と玄の婚礼が執り行われる。その日、梓維大陸への船は全便止まり、大陸内での婚儀となっていた。




