【82】最後の分岐(2)
哀萩は何も言わない。けれど、体は正直で──見ないでと言うかのように、体を縮めていく。
羅凍は哀萩の両肩をつかみ、屈む。目線を合わせ、名をやさしく呼ぶ。すると、怯えるような瞳が羅凍を見た。
「俺は哀萩にそうしたいとか……そういうやましい気持ちがまったくないわけではないけど、本当にそばにいてほしいだけなんだよ。頼む……俺といてくれよ」
ふと、哀萩の口元が歪みそうになる。だが、次の瞬間、八の字を作っていた眉は、大きくつり上がって──羅凍は振り払われた。そして──。
「もう! やめてよっ!」
全身全霊で、哀萩は叫ぶ。
「捷羅と関係を持ったのは単に慰めよ。捷羅はああいう人だから、私に同情したの。私は! 傷付いた捷羅を受け入れた。それだけよ! お互い単に慰めなんだって、言わなくたってわかってる! 捷羅は割り切れる人だけど、羅凍は違うじゃない! 本当にまっすぐで……そんな想い、受け止めるなんてできない! たとえ一緒にいたって、お互い苦しみを味わうだけよ! どうしてわかってくれないの? 私、何度も何度も断ってるじゃない!」
責めたてられた羅凍は、あっけにとられる。いくら鈍感だからといって、好きな子の気持ちを都合のいいように湾曲して受け取ったりしない。
「羅凍のそばになんていたら、私……また貴男を想ってしまうのに。すべてを望んでしまうのに……どうしてわかってくれないの?」
やっと、やっと聞けた哀萩の本音。羅凍は手を伸ばし、哀萩の震える右手を握る。
「外見を、体を愛しているわけじゃない。それに、こんな地位なんて、俺にはいらない。何を捨てることになっても、俺は哀萩がいてくれれば構わない!」
両手で哀萩の右手を握り、懇願する。膝をついて、祈るようにうつむく。
哀萩への想いを言葉にすればするほど、体中に流れる貊羅の血が憎い。貊羅に似た外見であることも。もし、体が違ったのなら、哀萩は受け入れてくれたのかと思えば、尚更。
身を切り刻みたくなる。捨ててしまいたい。
「それだから、バカなのよ。羅凍は」
降り注いだ哀萩の声は、いつもの口調で。羅凍は思わず顔を上げる。
「少しは捷羅のこと、考えてあげなさいよ。羅凍がそんなだから、捷羅は女の人に心の拠りどころを探すのよ」
「俺に、禾葩さんが自殺したときに……どうするべきだったと言うの?」
「気にしすぎよ」
「俺のせいなのに?」
「あれは禾葩さん自身のせい。そのくらい、捷羅だってわかっているわ」
静寂が流れた。結論が出たから。最後の分岐なんてなかった。哀萩には、羅凍を受け入れる気はない。それは明らかで、揺るがないもの。
羅凍の望んだ未来が消えていく。残されるのは、これから母のもとへ向かい、宣告を受けるだけ。
「離して。結婚相手、決まったんでしょ。玄さん……禾葩さんの妹さん。……幸せになりなさいよ」
「俺は……そんなことのためにしか必要とされないんだよ。哀萩まで……母上と同じように、俺のこと、人形扱いか……」
立ち上がる気力も出ない。握る手は、離せない。羅凍は彼女から冷たくされるのは慣れているはずだった。だが、今日はひどく彼女の言葉が胸に突き刺さって痛い。
哀萩の拒絶は、羅凍の想像を上回っていた。彼女は現実を直視していて、受け入れる強さを持っていた。
羅凍は、今更ながらに思う。言いたいことを言う哀萩だからこそ心を開けたし、想いを寄せたのだと。
哀萩は言った。『また貴男を想ってしまう』と。それは、つまり──哀萩は羅凍を『諦めた』ということで。羅凍は哀萩を諦められないのに、それができたということだ。
「そんなこと、言ってないわよ。玄さん……本当に羅凍のこと想ってんのよ? 『幸せな家庭築きなさい』って言ってるの。それが可能なんだから。新しい自分の家族に『必要とされる人間』になるじゃない」
死に追い詰めた人の妹に、どういう顔で会えというのか。どう接しろというのか。どう笑えというのか。それこそ、羅凍が窒息してしまう。想われていると言われても、返し方もわからない。ただでさえ、『家族』とはどんなものなのかもわからない。それなのに、望まれていることだけが明確で。捷羅ならうまく適合しただろう。けれど、羅凍にそういう器用さはない。何をどうしても諦められず一途に想ってきた人がいて、別の誰かを妻に迎えるだけでも絶望的なのに。
羅凍は声を殺す。ただただ、ジッと耐える。涙を、こぼさないように。
哀萩は何も言わない羅凍を初めて見ただろう。さすがに見ているのが辛いのか、スルリと右手を抜く。それはあっけないほど、かんたんに抜けた。
「じゃあね」
羅凍を置き去りにして、哀萩は歩き出す。
城内へと戻る哀萩の体が次第に震え始める。
──羅凍に同情なんて、できるわけないじゃない。
羅凍にいつも感情を見抜かれそうで、哀萩は怖かった。だから、羅凍には冷たく接するしかできなくなった。
羅凍に冷たくすれば、哀萩自身にも冷たくなった。素直でいられなくなった。それはまるで、捷羅に似てきたようで──捷羅の歪んだ愛情に支えられてきた。
それでも、羅凍に向けていた憧れは、羨望の眼差しに変わっていた。いつまでもまっすぐなままの羅凍は輝いていた。
羅凍は、哀萩にとって王子様だった。そう、おとぎの国の。いつもキラキラと輝く憧れの存在。
だからこそ、汚れて歪んでしまった哀萩を好きでいてほしくない。でも、つい見ていたくなる。矛盾する感情を抱えた。そばにいたいと願った。──哀萩は、そんな自分自身が心底嫌いだった。
しばらく歩くと、視線の先に捷羅がいた。
捷羅を見た途端、哀萩の張りつめていた糸がプツリと切れる。──哀萩は、涙をボロボロとこぼした。
「辛かったね」
捷羅はやさしく声をかけ、哀萩を抱き寄せる。そして、慰めるように頭をなでる。
哀萩は捷羅の名を呼ぶが、それは声にならない。ただ、次第に泣き声だけになり、哀萩は捷羅の胸で号泣した。




