【10】伝承(2)
充血した瞳は、憎しみをためている。
「俺が十八歳になる直前で、婚約の延期を大臣から告げられたあのとき、俺が感じたのは絶望だけだ。十八歳になったら地位だけでも……母上の息子だと公言できる日を取り戻せるかもしれないと、心の片隅でずっと思って、それを支えに俺は……何でも耐えてきた。ずっと、ずっとだ! クロッカスの色彩を失ったことも、一剣士に成り下がることも、誄姫が普通に成長していく姿を目にしていても……全部だ」
沙稀は目じりからあふれないように、目元をサッと拭う。
「帰城を切に願ったのは、一年間くらいか。……大臣の言う通りだ。帰城さえしてくれたなら、俺と双子だと証明され、俺の身分は戻ると待ち望む気持ちはあった。ただ、行方不明になってから十年以上も経ち、生きていないと思う方が自然で、気も楽になった。当時の現状を受け入れ、鴻嫗城を守り、生きていけるのなら、姫の側近として生きていくのも悪くないと思えるようにもなっていった。それを、あんな条件を出されて……」
言葉は途切れ、ふと静寂が流れた。沙稀の肩が上下に揺れている。──認めてはいけない想いと、認めなくてはならないという想い。
三年前、恭良の婚約話が浮上したとき──恭良は了承する代わりにと、沙稀に『同じ日に結婚すること』を条件にした。それを呑めなかった理由をこの場で言うには、どうしても矛盾する想いを合わせなければならない。
それを、深呼吸で受け止める。口に出してはいけない想いを、言わなくてはならない。
「どうして心が奥底から求めてしまう人と、同じ日に、別の誰かと結婚しないといけない?」
それは、何でも譲るように差し出してきた沙稀の、譲れない想い。
「もともと俺にとって結婚は、鴻嫗城を継ぐために必須だった。だから、十八歳になったらするものだと思っていただけだ。それなりに愛して、そのうち娘を授かれればいいと思っていた。ただ、それは、俺が母上から鴻嫗城を譲り受ける者だったからだ。俺の立場は戻らないと実感したとき、俺は絶望した。絶望だ。クロッカスの色彩を失ったときに、微かな光にすがって生き、それからの闇だ。……それを、鴻嫗城に仕える剣士として生きていくと決めて、絶望から抜け出した。納得もしている。気持ちの整理は……しないといけないのは理解しているし、想いを告げる気もない。そもそも、護衛と姫の恋愛はご法度だ。護衛と姫の行く末は、父上が俺に示している。死を恐れているわけじゃない。愛しい人と同じ理由で、息子が命を失ったらと思うと、母上をいたたまれない」
「恭良様への想いを秘める理由は、それだけですか?」
曇った表情に大臣は問う。すると、沙稀は観念したように再び口を開いた。
「それに……ましてや、妹だ。血が繋がらないとはいえ、承知している」
「紗如様に変わって、恭良様をかわいがっていたのは、貴男でしたね。血の繋がりがないどころか、紗如様は結局、王と入籍はしませんでしたけれど」
「わかっている。ただ、俺の記憶には、確かに……」
「恭良様を妹としてかわいがった記憶がある……そうですね。いつも恭良様のそばにいらしたのは、沙稀様です。そして、沙稀様が王に命を狙われたあと、王の連れ子の恭良様を鴻嫗城の姫として育てたのは、私です。貴男は王に命を狙われ意識不明に、そして、私はあの方を生き伸びさせようとして、結果、行方不明にさせてしまいました。途方に暮れた私は、ここの血を継がない恭良様を姫として、その重責を背負わせたのです」
何もかもが狂ったのは、あのときで。──沙稀が七歳の、あのとき。沙稀も、大臣も、恭良も、そのときの被害者だ。
「それは俺も同じだ。鴻嫗城を、壊さないために」
「このまま恭良様が誰かとご結婚し、お継ぎになれば、鴻嫗城の血を引かないご子息が産まれます。……それで、本当によいのですか?」
「アイツは帰城しない、俺は結婚しないと決めている。……鴻嫗城の血を引く者は、もう産まれない。それが結論だ」
「このまま、貴男で紗如様の血を途絶えさせるおつもりですか?」
「では、俺にどうしろというんだ!」
感情を露わにする沙稀に、大臣は口を挟まない。最善の道など、ない。途絶えてしまった。ひとり足らないせいで。何もかもが狂ったまま動き、戻せなくなってしまった。
「俺は元の地位へは戻れない。それでいいと呑み込んだ。……それがすべてだ」
光は、絵画を照らすのみ。他にはこぼれるだけで、闇が周囲を支配していた。