【82】最後の分岐(1)
夜が近づくような深い青が、せわしなく揺れている。──羅凍のマントだ。彼は、すっかり落ち着きを失っていた。額には汗を浮かべ、焦りの色が美しい顔に張り付いている。
羅凍は、母の愬羅に呼ばれていた。けれど、足が向かうは逆方向。母から呼び出しがかかっていて、すぐに行かないのは初めてだ。到着が遅れれば、何を言われるか。今まで、その恐怖だけで従ってきた。
けれど、それどころではない。何を話されるか──予想は付いている。
貊羅が体調を崩し、忒畝を呼びに行って戻ってきてから、羅凍はずっとひとりの人物を探している。それなのに、その姿を見つけられずにいた。避けられているのは明確で、もう羅暁城にいないのかもしれないとさえ思うほど。ただ、後者はさすがにないだろうと思いとどまる。長い付き合いだ。いくら何でも、別れのあいさつくらいはしてくれるだろうと、祈るように過ごしていた。
それなのに、間に合わなかった。会えなかった。だから、会わなくてはいけない。どうあっても。その一心で、羅凍は身をひそめながら城内を走り回る。
本当は、必ず会える場所は知っている。貊羅の部屋だ。もし、貊羅の部屋でひたすら待つなら、いつかは必ず会えると知っている。ただし、その度胸が羅凍にあるかと問えば、否だ。哀萩に会いたい思いの方が強いのに、体が行動を拒む。──それも、今となっては、強行しておけばと後悔するばかりで。今では、もう遅い。待つ猶予がないのだから。
一体、どこに──と、羅凍はふと窓の外を見る。すると、偶然か必然か、哀萩が裏口から出ていくのが見えた。
羅凍は足を急いで止める。そうして、一番早く辿り着ける安全な経路を描こうとする。だが、愬羅が羅凍を探し始めれば、安全な経路なんて定義は脆く崩れるわけで──羅凍は一目散に走り出す。
「哀萩!」
ザワザワと草たちが騒ぎ出す。髪も服も、風に吹かれながら振り向く彼女は、どこかに消えてしまいそうで、
「待って!」
と、羅凍は必死に駆け寄る。
一方、振り向いた彼女はふしぎそうに羅凍を見上げていた。
「ちょうどよかった。あのね……」
「俺は……」
何と言おうかと迷う。様子からして、哀萩は羅凍に別れを言うつもりだろう。羅凍が裏口辺りによく姿を現すと判断して───想像通りだ。なのに喜べないのも、想像通りだからだ。
哀萩は羅凍を避けていた。けれど、長い付き合いだからと、別れのあいさつくらいはするのだ。──そうだ。言われる言葉は、決まっている。
「行かないで。俺は、哀萩が好きだから……」
「だから?」
「だから? って……」
羅凍は思わずオウム返しをする。それほど哀萩の口調は冷たいものだった。
怒るでも嫌がるでもない、見つめてくる忘れな草色の瞳。
「やめてって、ずっと……言ってるじゃない」
忘れな草の花言葉は『思い出』、『真実の友情』、それに加え、『誠の愛』。どれを取ってみても、彼女の瞳は、それらを訴えてくる。
「お願いだ。そばにいてほしい。俺、哀萩のことを、愛している」
忘れな草色の瞳が揺れる。それは、『私を忘れないで』と言っているように羅凍には見えて──けれど、彼女の口からは。
「まだ……ないの?」
一部聞き取れない呟き。しかし、羅凍を責める口調からして、明らかな拒絶で。だからこそ、羅凍は思いの丈を洗いざらいに吐く。
「そばにいてくれるだけで構わない」
「私たちは兄妹なの!」
「結婚なんてできなくていいし、子どももいらない。俺は何もしない! だからっ! だから、そばにいて。そばに、いてくれるだけで……」
「できないっ!」
哀萩は、これ以上話す気がないと言うように背を向ける。
言葉を聞かないように否定し続けた哀萩に、羅凍は言葉を呑む。互いの言葉を受け入れられないまま、互いに言葉を発していたのでは埒が明かない。話は平行線のままだ。これでは折角会えたのに、会わなくても変わらなかった。いや、それよりもひどい。哀萩とは最後の最後に喧嘩別れをして、二度と会えないことだろう。愬羅のもとへと行けば、不機嫌な様子で羅凍の未来を打ち砕かれる。わずかに羅凍が保持していた『個』が消滅する。
けれど、もし、哀萩がそばにいてくれるなら。哀萩のためになら、愬羅にも立ち向かえる気がしていて。『個』が羅凍にも、哀萩にもあると主張できる気がしていて。最後の分岐だ。だから、どうあっても、哀萩を引きとめたい。
──どうせ最後なら……。
羅凍は今までとどめていたことを言うしかないと、胸のつかえを吐き出す。
「兄貴とは兄妹と知りながら……関係を持ったのに?」
苦しみを吐き出す。すると、哀萩は疑いのまなざしを向けた。目を見開き、一歩、二歩と後退する。
「何で知って……」
「俺が何も知らないと、思っていただけだろ?」
言いたくないことだった。認めたくないことだった。『兄妹』とも、『兄と関係を持った』とも。苦しくて、苦しくて呑み込めなくて、でも、吐き出せなくて。胸やけを起こしそうになっても、とどめておくしかできなかったことだ。
捷羅が父に憎しみを込めて言っていたのを耳にしたときに己の身を呪って、想いを寄せる子を兄が道連れにしたと知ったときには、気が狂いそうになった。諦められたら、どんなに楽かという思いは、いつしか自責になって。苦しみがあふれて玉砕しても、想いは消えなくて。見つめる度に、忘れな草色の瞳は訴えてきた。
幼いころの、出会ったころの、汚れる前の──『私を忘れないで』と。
捷羅も恐らく羅凍と同じく、哀萩を『養女』としか知らなかったのだろう。だからこそ、哀萩は実の娘だと告白した父に、幾重もの憎しみが募った。
哀萩は、恐らく羅暁城に来たときから知っていたのだろう。自ら進んで捷羅に手を差し出したとは考えにくい。道連れになるときは、抵抗したはずだ。けれど、強く拒絶ができただろうか。禾葩に散られたあとの捷羅だ。哀萩に問いかけたのだろう。──『羅凍の方が哀萩も好きなのか?』と。
「ねぇ、また会えるかな?」
と、言ってくれた哀萩だ。
「本当に? 待ってるね!」
と、言ってくれた哀萩だ。一緒にたくさんかけっこをして、草原に転がって、笑い合って、そうして過ごしてきた哀萩だ。誰よりも、羅凍が見てきた。拒めるものか、目の前の人が廃人になるかもしれないと恐怖に襲われて、断れるものか。だから、きっと哀萩は捷羅の支えになると選び、その手を受け入れた。
羅凍が城内で過ごすようになってから、哀萩が冷たくなったのは、そのせいであって──見てほしくないからこそ、突き放そうとしたのであって。
知らないふりをしていた方が、円滑に年月を刻んでいけるだろうと見て見ぬふりをしてきた。
でも、もうそれもおしまいだ。どうあっても、哀萩が羅凍の気持ちを受け入れる時期はなかっただろう。哀萩は羅暁城に来たときからずっと、貊羅の娘だと知っていたのだから。
ただ、悔しい。兄が想うよりもずっと、哀萩のことが好きなのに、と。
「兄妹と知ろうが、何を知ろうが俺の気持ちは募っていくだけで! 哀萩を想う気持ちが消えないんだよ!」




