【80】門出
──忙しいのかもしれない。
相手は梓維大陸を治める城の嫡男。そう思えば、凪裟は受話器に伸ばした手を何度も引っ込める。
──何をしているんだろう……。
考えれば考えるほど、混乱する。捷羅が鴻嫗城に伝説の話をしに来るまでは、凪裟は邪険に扱っていたも同然。そのことに気づいて、余計に気落ちしてしまう。
──都合がいい、なんてものじゃない……。
そう、どちらが都合のいいように相手を振り回していたのか。今更、反省しても遅いと腹を括る。
義理の母になるかもしれない人にテストを受けろと言われ、従って、その合否は未だ出ない。それが、答えだと。連絡が途絶えた。それが、答えだと。
凪裟は思わず笑ってしまう。けれど、次の瞬間にはため息になって──そのとき、心情を無視する電話のコールが鳴った。
ビクリと肩を震わせて、気の抜けた声が出る。
「え……え?」
動揺しつつも、鳴り続けるコール音に凪裟は慌てて受話器を取った。
「あ、あの!」
受話器にかぶりつくように出て、後悔する。
──ああ、勝手に捷羅様だと思って出ちゃった。
凪裟の感情が目まぐるしく変わるも、受話器から声は聞こえず。しかし、通話は切れていないようで。ふと、凪裟は我に返り、名乗ろうとした──刹那。
「凪裟さん、ですよね?」
受話器から聞こえた声。それは、まさに捷羅のもので。凪裟は、
「は、はい! そうです、凪裟です!」
と、緊張を露わに返答する。
受話器から聞こえてくる捷羅の声は、実におだやかで。
──そうだ。……毎日かかってきていたわけじゃなかった。
冷静にこれまでのことを振り返ることができて。胸の奥があたたかくなるのを感じて。
──これまで捷羅様は、どう……思ってくれていたのだろう。
やっと、相手を見られるようになって。胸がチクリと痛んで、ギュッと苦しくなった。
気づけば、電話は終わっていた。これまでと変わらない、何気ない会話だった。──そう、それだけ。それだけだったのに、凪裟はもっと捷羅の声を聞いていたいと思ってしまって、どこか上の空だった。
「あ……」
捷羅がやさしくて言えないのであれば、断られるように話をしなくてはと考えていたのにと思い出す。
──でも。
気持ちがはっきりしてしまった以上は、できることなら──と欲が出てしまった。
甘えても、いいのだろうか。捷羅のやさしさに──罪悪感が凪裟にないわけでもない。一週間に平均三日は連絡が来て、罪悪感は重なって。幸せなひとときのために、言い出さなければと思いつつも、決定的な言葉は言えずに。何週間も過ぎていった。
しかし、そこから。
三日経っても四日経っても電話がなくなり。明日、明日ことはと祈るように思っていたら、一週間ほどが経過していて。今度こそ、もう連絡はないといよいよ凪裟が諦めかけたとき、また電話が鳴った。
受話器を上げた凪裟が耳にしたのは思いもかけなかったことで、
「え?」
と、間抜けな声がもれる。──それは、捷羅の父、貊羅の体調が優れなかったという一言だった。
何と言葉をかけたらいいのかと迷っていると、またもや唐突な言葉が聞こえてきた。
「父が、凪裟さんに会いたいそうです。来てくださいますか?」
凪裟は息を呑む。国王に会う──これは、結婚と同義であると意味を汲んだからこそ。凪裟が返事をできないでいると、捷羅は観念したかのようにポツリと言う。
「あの……俺と、結婚してもいいと思ってくださっているのなら、いらしてください」
「え、あ、はい! 行きます! もちろんです!」
驚きのあまりにただただ浮かぶだけの返事を凪裟がすれば、捷羅はいつの間にか受話器の向こうで楽しそうに笑っていて。
「よかったです」
照れたような声が、恥ずかしそうな声が聞こえた。
こうして、凪裟は晴れて捷羅との婚約が確約されて、鴻嫗城を立つ。
その日は、雲ひとつない快晴で。見慣れていたはずの城内の景色が、渡り廊下の風景が、やけに新鮮に見えた。
凪裟は最後に地下に降りて、宮城研究施設を見て回る。長年いた鴻嫗城で、一番長く過ごした部屋。いや、唯一の居場所だったのかもしれない。どこを見ても、懐かしさばかりで感傷に浸ってしまいそうになるが、船の時間がある。梓維大陸には、楓珠大陸で一度乗り換えなくては行けない。一本遅れれば、何時間も遅れてしまう。
捷羅は待っていてくれるだろう。恐らく、また船着き場で。そう考えれば、乗り遅れるわけにはいかない。
「さて、行かなきゃ」
誰に言うでもなく、凪裟は荷物を持って宮城研究施設を出る。階段を上がると、人影が見えた。
凪裟は素早く頭を深く下げる。いくら仲良くしてくれたふたりだからと言って、別れのあいさつをきちんとして、一区切りをつけたい。
「今まで、お世話になりました」
凪裟の行動に沙稀と恭良は驚き、顔を上げるように言う。だが、凪裟は横に頭を振った。
泣いていると知られたくない。悲しいわけではないが、鴻嫗城から離れるのが凪裟も自分自身で決めたこととは言え、寂しい。自宅のような、学び舎のような場所だった。楽しい思い出も切ない想いも、たくさんのことが鴻嫗城に詰まっている。
凪裟は裏門から出ていくと告げる。裏門は、近しい者しか出入りしない場所だから。──ふと、沙稀が何かを差し出した。それは、招待状だった。
「俺たちの結婚式、もちろん出席してくれるでしょ?」
「こっちは、捷羅様と羅凍様に。貊羅様と王妃様には、追って送ります」
今度は恭良だ。
今生の別れと思っていた凪裟は、思わず顔を上げる。すると──。
「これが一枚目。二枚目は羅凍様にお渡し願いたいけれど……」
「凪裟の旦那様になる方が捷羅様なら、二枚目は捷羅様になるのね、きっと」
まるで、ふたりは『またね』と言っているようで、
「そうですね!」
と凪裟にも恭良と同じく笑顔が咲く。
ひとりで出ていこうと思っていた凪裟だったが、結局、沙稀と恭良と大臣に見送られた。
羅暁城へと向かう道は、長い一人旅のようにも感じたが、それとは違う。──この道のりは、帰り道として歩くことのない道だ。
船に乗り、乗り換え。次第に冷たい空気へ変化していくのを、凪裟は気持ちよく肌で感じた。




