【78】告白(1)
翌日、忒畝は克主研究所に戻ってきた。ふと、入り口の手前に人影があるのに気づく。紫のようなグレーのような、風にサラリと動く長い髪。どこか落ち着かなさそうな手元と、足首ほどまであるロングスカート。佇まいからしても、間違いない。馨民だ。
忒畝を出迎えた馨民は、喜々として歩み寄る。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「要点だけ、いくつか報告をしてもいい?」
遠慮がちに聞く馨民に、忒畝はうなずく。そうして、ふたりは並んで歩く。
研究所内に入れば見える、壁から飛び出た半立体の彫刻を通り過ぎ、廊下まで来た。広がっていた視界が狭まり、六人ほどが一列で歩けそうな廊下を位置も確認せずに感覚だけで進んでいく。ふたりにとっては、なじみ深い生家。見慣れた景色と、二十年という月日を刻んできた空気に安心しきっている。
けれど、馨民は忒畝に気を遣わないのではなく、むしろ、その逆だ。要点だけを報告として話している彼女は、神経を張り詰めるほど忒畝に気遣っている。そのそぶりは見せないが。
彼女は好んでそうしている。それが、彼女の幸せだから。
一方の忒畝にとっては、馨民の話はわかりやすく大いに助かっている。馨民の話し方はいつも機転が利いて、忒畝は感心する。それと同時に心安らぐ、おだやかな時間。忒畝は自然と頬がやわらかくなる。
忒畝が笑顔で報告を受ければ、馨民にも自然と笑顔が咲く。二十年間、このふたりの間柄は変らない。
業務の報告が一通り終わると、悠穂と『龍声』の意識はまだ戻らないと馨民は言った。
想定していたことに、忒畝は『そうだろうな』と思いつつ相槌を打つ。
ふと、妙な間があいた。
忒畝が馨民に視線を向けると、何かを言いたそうに見える。
「どうしたの?」
「え?」
馨民の肩がピクリと跳ねる。こんな様子の馨民は──そうだ、一度だけ見たことがある。あれは、十四歳のとき。君主の試験の、合格発表前日。
けれど、あのときの話はそれで終わっていて。この六年間、それまでの十四年間のままの関係で過ごしてきた。互いの気持ちは、わかっている。賢い馨民のことだ。──今更、もう一度同じ話を蒸し返すとは考えにくい。
忒畝は黙って言葉を待つ。
すると、馨民は言うのを戸惑っているようだったが、
「あ、あのね……」
と、焦っているように口を開く。だからこそ、忒畝の疑問は膨らみ、
「うん?」
と、聞いていると示唆できる程度の相槌を打つに終わって。
よほど言いにくいのか、馨民は顔を赤らめてようやく『言葉』を言った。
「忒畝に、相談があるの。……聞いてもらえる?」
『相談』──その発言にすっかり不安は吹き飛び、忒畝は笑顔で答える。
「いいよ」
『自室でもいい?』と忒畝が聞くと、馨民はすぐさまうなずいた。忒畝は自室にさほど他人を入れない。真剣に聞こうとしている姿勢は、馨民に伝わっただろう。
バタバタとして、どのくらいが経ったか。忒畝には何年にも感じられるほどに色々ありすぎたが、現実はまだ数ヶ月が過ぎていっただけだ。
だが、この数ヶ月で──馨民にも充忠にも負担を大きくかけてしまったと忒畝は思っている。しかも、悠穂の一件から、きちんと話すと言っておいて、まだ話せていない。いや、これからようやく話せると思って帰ってきたが、先に催促をされては言い訳になるだけだ。──そもそも、馨民も充忠も催促することはないが、心につかえはあるだろう。
忒畝が研究に没頭して缶詰状態になっても、気遣ってくれる親友のふたりだ。馨民も充忠も、忒畝にとっては大切な親友。一段落ついて、時間を配分できる状況にあるなら、いくら時間を割いても惜しくない。
忒畝はどこか緊張している馨民を置いて先に部屋へ入り、
「座って」
と声をかける。奥に歩いていき、ティーポットとカップを取り出す。
馨民には、食器の音が聞こえてくる。カチャカチャと一定のリズムを刻んでいるような音は、馨民に冷静さを、落ち着きを与える。──ああ、忒畝がアップルティーを入れているのだ、と。
数分もしないうちに、室内はアップルティーの香りで満たされる。いつしか、馨民にも安心と心地よさと、少しだけの甘酸っぱさを運んでくるようになった特別な紅茶の香り。
「はい」
案の定、馨民の目の前にはアップルティーが差し出され、出されるがままに一口、また一口と飲む。
忒畝は馨民のその様子を見ながら、となりに座る。
──馨民らしくないな。
どうしたのかを聞きたいと思いながらも、急かすことはなく。ジッと待つ。同じく、アップルティーを一口、また一口と飲みながら。彼女のペースがあると、忒畝は忒畝で心を落ち着かせながら。
忒畝が何も言わないその様子は、待ってくれていると馨民に伝わる。無理に言わせようとはしない忒畝のやさしさを感じ、馨民はおもむろに口を開く。
「あのね、充忠に付き合ってくれないかって……言われたの」
忒畝は驚く。あの充忠が? と。充忠はどちらかと言えば、空気を読む方だ。他人に対し無関心に振舞いつつも、人と人の距離を敏感に測っていて、調和を保とうとする。忒畝がそれに気づいたのは、充忠と深く仲良くなる前で──充忠と特に話す前から『お前ら、付き合ってんの?』と言ってきた本人が、馨民の気持ちを察していないはずがない。
そもそも、いつから充忠は馨民に好意をよせていたのか──そう考えてみたところで、人の気持ちに無関心な忒畝にわかるはずもなく。ただ、
──ああ、でも、そうかも。
と妙に納得したのは、過去生を見てきたせいで。
──ふたりは、過去生では夫婦だった。
こんなにしっくりくる事実はない。だからこそ、迂闊にもクスリと笑ってしまう。
「ご、ごめんね。こんなときにこんな相談。でも、突然で……どう答えたらいいのか、わからなくて」
うつむく馨民。横顔でも、困惑の色がよくわかる。場を繕うように忒畝は首を横に振り、
「笑ってごめんね」
と謝る。悪気がなかったのは、馨民に伝わっていたのだろう。馨民は小動物が震えているかのように、首を数回横に振る。見ていると、辛くなる。恋愛を、想われるのを、馨民が怖がっているようで。
そう、怖いのかもしれない。忒畝も充忠も、馨民の家庭事情は知っているが、だからといって、ふたりを同じ領域に入れられないのか。忒畝は馨民が生まれたときからそばにいるが、充忠は違う。『同級生』として、七歳のころに同じ研究者の卵として出会ったうちのひとり。忒畝が充忠と仲良くなったから、馨民も同じく一緒にいるようになって。多くのことを話してきて、何でも言える間柄になった。けれど、母親しかいない馨民にとっては──父親の知らない馨民にとっては──恋愛となると話しがまったく違ってくるのだろう。
人見知りが激しくて、忒畝のとなりにいるしかできなくて、進んで友達を作ろうとできなかった馨民だ。いくら充忠と親しくなったとはいえ、足踏みするのはおかしくないというか、何とも馨民らしいというか──。
「一番大切なのは、馨民の気持ちだよ。それ次第でしょ?」




