【76】狭間
人がひとり消えるなど夢のような出来事だが、忒畝は初めてのことではない。尚且つ、手元には注射器が確かに残っている。
──終わったんだ、これで。
忒畝には、しっかりと現実として刻み込まれていく。すると、緊張感がプツリと切れたのか、ガクリと膝が落ち、右手を床につく。
視界が微かにかすむ。どうやら、未だ貧血気味らしい。できることなら、このまま少し眠ってしまいたい。けれど、ここで倒れるわけにはいかない。ここは羅暁城であり、貊羅の部屋。
──駄目だ、まだすべてが終わっていない。
研究所に帰って数々の課題──馨民と充忠への説明や、悠穂と『龍声』への対応──が残っていると忒畝は思い直す。
それに、今は今のやらなければならないことがある。貊羅の容態の確認だ。そもそも、羅凍と一緒に羅暁城に来たのは、貊羅の容態のためでもある。忒畝はここで竜称を見てから、貊羅の容態が悪いのは竜称の影響だと確信していた。それは、鴻嫗城で王が命尽きる瞬間を見たからだが、魂が抜かれる前から王に意識はなさそうだった。
その点では、王と貊羅は異なる。忒畝が辿り着いてからも貊羅はうわ言を言っていた。その相違は、竜称の意図か──少なくとも、忒畝は竜称が貊羅を殺めようとしていたわけではないと信じてここにやってきた。忒畝の予測があっていれば、竜称が消えたことで貊羅は回復に向かうだろう。
忒畝は床に落ちた注射器のふたを拾い、しっかりと注射器につける。上着の左側に注射器を戻すと、現実に戻るかのように立ち上がる。
貊羅の顔を見て、忒畝は眉を下げながらも口角が上がる。深く呼吸したそれは、安堵。
貊羅の顔には、赤みが戻ってきていた。うわ言は言っていない。もしかしたら、貊羅は竜称との会話を聞いていたかもしれない──そう思えば忒畝はむずがゆくなる。人目をまったく気にしていなかったから。
「貊羅様、お久しぶりです。忒畝です。ちょっと、容態を確認しますね」
小声で照れ隠しのように言うと、忒畝は貊羅の額と脈拍を確認する。それらは数秒ずつで、忒畝の手はスッと貊羅から引いた。
「まだ苦しいかもしれませんが、大丈夫ですよ。じきによくなりますから、安心して眠ってくださいね」
乱した布団を直すと、貊羅がやんわりと微笑んだ気がした。
忒畝は貊羅の部屋をそっと退室する。そうして、捷羅を探す。貊羅の意識は、しばらくすれば戻るだろうと告げたい。
捷羅は二階に上がってすぐのバルコニーにいた。名を呼んで、
「こういうときって、何だか風にあたりたくなりますよね」
と忒畝が続けると、捷羅は形式的な笑みを浮かべた。
今の貊羅の容態を伝えると、捷羅は特に何かを聞くわけでもなく。ただ、深々と頭を下げて礼を言う。その言動には、やはり安堵や喜びという感情は伝わってこず、忒畝に言い知れぬ寂しさを落とす。
一方の捷羅は実に淡々としていて、ていねいに忒畝を気遣う。客間に案内する使用人を呼んだあと、ようやく忒畝が安心できる言葉を捷羅は言った。
「これから羅凍と面会に行ってきます」
捷羅たちと貊羅の間に、何があるのか忒畝は知らない。いや、知っていたところで、家族の問題は家族との間でしか解決できず、忒畝の介入できることではない。
けれど、忒畝は願う。
捷羅たちもいつか、理解し合え、微笑み合うことができるようにと──。
客間に案内されると、使用人は忒畝に一礼した。『ありがとう』と忒畝が言うと、使用人は恐縮したように身を縮めて『いえ』と笑みをこぼし下がっていった。
扉を閉め、忒畝は馨民に連絡を入れる。
「明日の朝に羅暁城を発つから」
特段何かを意識して言ったわけではないのに馨民から意外な言葉が返ってきた。
「無理しすぎないでね」
馨民の言葉で、忒畝はハッとする。無意識で声に疲れが出ていたと。──忒畝は苦笑いだ。
「ありがたいね」
馨民の言葉は、親友の言葉はありがたいと忒畝は感謝する。自然と微笑みを浮かべていたが、受話器からは『え?』と困惑するような、照れるような声が聞こえていた。
たわいのない会話を数分し、受話器を置く。疲れからか、ため息がもれ忒畝はいつになくフラフラと椅子に座る。
すると一気に疲労感が増して、睡魔が忒畝を襲う。上半身はテーブルに向かってゆっくりと吸い込まれるように曲がっていき、意識が遠のく。
誰かの残像が見えた。
長い髪が揺れている。
裾の長い、淡い水色のドレス姿。
女性は悲しそうにうつむいている。誰かを待っている。誰を──。
微かに甘い香りがした気がして、忒畝は意識を取り戻した。鼓動が早い気がする。
──会いたい。
ふと浮かんだ言葉に、わずかな胸の痛みを覚える。
──僕は、誰に会いたいと願ったんだろう。
鼓動はより早くなる。残像がいくつも脳裏に過ってきて。それは鮮明になって。ある人物の発言が通り過ぎていく。
──ああ……。
接点のなかったはずの欠片たちが、導かれるように合わさっていく。
『一度会ったら、絶対忘れられない人になりますよ』──確かに、その通りだった。
しかし、忒畝には今、抱いた気持ちを違うと否定したかった。もどかしい感情は、絡み合っていた糸のようで──ほどいてはいけない糸だと、巻付いていた糸だと気づいてはいけなかったと、認めたくない思いとなって心に立ちのぼる。
合わせてはいけない欠片を瞬時にひとつ取り除いたのは、忒畝の意図だ。このひと欠片を合わせて完成させてしまったら、あとに引けなくなってしまいそうで。
できることなら、このまま気づかなかったと、何もなかったように消し去りたいと忒畝は天井を見上げる。見上げるのは、空に続きそうな高い高い天井。
──天に僕は、無事に還れるのだろうか。




