表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
151/409

【76】狭間

 人がひとり消えるなど夢のような出来事だが、忒畝トクセは初めてのことではない。尚且つ、手元には注射器が確かに残っている。


 ──終わったんだ、これで。


 忒畝トクセには、しっかりと現実として刻み込まれていく。すると、緊張感がプツリと切れたのか、ガクリと膝が落ち、右手を床につく。

 視界が微かにかすむ。どうやら、未だ貧血気味らしい。できることなら、このまま少し眠ってしまいたい。けれど、ここで倒れるわけにはいかない。ここは羅暁ラトキ城であり、貊羅ハクラの部屋。


 ──駄目だ、まだすべてが終わっていない。


 研究所に帰って数々の課題──馨民カミン充忠ミナルへの説明や、悠穂ユオと『龍声リュウナ』への対応──が残っていると忒畝トクセは思い直す。

 それに、今は今のやらなければならないことがある。貊羅ハクラの容態の確認だ。そもそも、羅凍ラトウと一緒に羅暁ラトキ城に来たのは、貊羅ハクラの容態のためでもある。忒畝トクセはここで竜称カミナを見てから、貊羅ハクラの容態が悪いのは竜称カミナの影響だと確信していた。それは、鴻嫗トキウ城で王が命尽きる瞬間を見たからだが、魂が抜かれる前から王に意識はなさそうだった。

 その点では、王と貊羅ハクラは異なる。忒畝トクセが辿り着いてからも貊羅ハクラはうわ言を言っていた。その相違は、竜称カミナの意図か──少なくとも、忒畝トクセ竜称カミナ貊羅ハクラを殺めようとしていたわけではないと信じてここにやってきた。忒畝トクセの予測があっていれば、竜称カミナが消えたことで貊羅ハクラは回復に向かうだろう。

 忒畝トクセは床に落ちた注射器のふたを拾い、しっかりと注射器につける。上着の左側に注射器を戻すと、現実に戻るかのように立ち上がる。

 貊羅ハクラの顔を見て、忒畝トクセは眉を下げながらも口角が上がる。深く呼吸したそれは、安堵。

 貊羅ハクラの顔には、赤みが戻ってきていた。うわ言は言っていない。もしかしたら、貊羅ハクラ竜称カミナとの会話を聞いていたかもしれない──そう思えば忒畝トクセはむずがゆくなる。人目をまったく気にしていなかったから。

貊羅ハクラ様、お久しぶりです。忒畝トクセです。ちょっと、容態を確認しますね」

 小声で照れ隠しのように言うと、忒畝トクセ貊羅ハクラの額と脈拍を確認する。それらは数秒ずつで、忒畝トクセの手はスッと貊羅ハクラから引いた。

「まだ苦しいかもしれませんが、大丈夫ですよ。じきによくなりますから、安心して眠ってくださいね」

 乱した布団を直すと、貊羅ハクラがやんわりと微笑んだ気がした。


 忒畝トクセ貊羅ハクラの部屋をそっと退室する。そうして、捷羅ショウラを探す。貊羅ハクラの意識は、しばらくすれば戻るだろうと告げたい。


 捷羅ショウラは二階に上がってすぐのバルコニーにいた。名を呼んで、

「こういうときって、何だか風にあたりたくなりますよね」

 と忒畝トクセが続けると、捷羅ショウラは形式的な笑みを浮かべた。

 今の貊羅ハクラの容態を伝えると、捷羅ショウラは特に何かを聞くわけでもなく。ただ、深々と頭を下げて礼を言う。その言動には、やはり安堵や喜びという感情は伝わってこず、忒畝トクセに言い知れぬ寂しさを落とす。

 一方の捷羅ショウラは実に淡々としていて、ていねいに忒畝トクセを気遣う。客間に案内する使用人を呼んだあと、ようやく忒畝トクセが安心できる言葉を捷羅ショウラは言った。

「これから羅凍ラトウと面会に行ってきます」

 捷羅ショウラたちと貊羅ハクラの間に、何があるのか忒畝トクセは知らない。いや、知っていたところで、家族の問題は家族との間でしか解決できず、忒畝トクセの介入できることではない。

 けれど、忒畝トクセは願う。

 捷羅ショウラたちもいつか、理解し合え、微笑み合うことができるようにと──。




 客間に案内されると、使用人は忒畝トクセに一礼した。『ありがとう』と忒畝トクセが言うと、使用人は恐縮したように身を縮めて『いえ』と笑みをこぼし下がっていった。

 扉を閉め、忒畝トクセ馨民カミンに連絡を入れる。

「明日の朝に羅暁ラトキ城を発つから」

 特段何かを意識して言ったわけではないのに馨民カミンから意外な言葉が返ってきた。

「無理しすぎないでね」

 馨民カミンの言葉で、忒畝トクセはハッとする。無意識で声に疲れが出ていたと。──忒畝トクセは苦笑いだ。

「ありがたいね」

 馨民カミンの言葉は、親友の言葉はありがたいと忒畝トクセは感謝する。自然と微笑みを浮かべていたが、受話器からは『え?』と困惑するような、照れるような声が聞こえていた。


 たわいのない会話を数分し、受話器を置く。疲れからか、ため息がもれ忒畝トクセはいつになくフラフラと椅子に座る。

 すると一気に疲労感が増して、睡魔が忒畝トクセを襲う。上半身はテーブルに向かってゆっくりと吸い込まれるように曲がっていき、意識が遠のく。




 誰かの残像が見えた。


 長い髪が揺れている。


 裾の長い、淡い水色のドレス姿。

 女性は悲しそうにうつむいている。誰かを待っている。誰を──。




 微かに甘い香りがした気がして、忒畝トクセは意識を取り戻した。鼓動が早い気がする。


 ──会いたい。

 ふと浮かんだ言葉に、わずかな胸の痛みを覚える。


 ──僕は、誰に会いたいと願ったんだろう。

 鼓動はより早くなる。残像がいくつも脳裏に過ってきて。それは鮮明になって。ある人物の発言が通り過ぎていく。


 ──ああ……。

 接点のなかったはずの欠片たちが、導かれるように合わさっていく。


『一度会ったら、絶対忘れられない人になりますよ』──確かに、その通りだった。


 しかし、忒畝トクセには今、抱いた気持ちを違うと否定したかった。もどかしい感情は、絡み合っていた糸のようで──ほどいてはいけない糸だと、巻付いていた糸だと気づいてはいけなかったと、認めたくない思いとなって心に立ちのぼる。

 合わせてはいけない欠片を瞬時にひとつ取り除いたのは、忒畝トクセの意図だ。このひと欠片を合わせて完成させてしまったら、あとに引けなくなってしまいそうで。

 できることなら、このまま気づかなかったと、何もなかったように消し去りたいと忒畝トクセは天井を見上げる。見上げるのは、空に続きそうな高い高い天井。


 ──天に僕は、無事に還れるのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ