★【10】伝承(1)
時刻は深夜をまわり、鴻嫗城の灯りは要所要所のみとなった。そんな中、ある人物が城内を歩いている。──沙稀だ。
懐かしいという思いに浸れたら、どんなに幸せなことか。思い出を回想している沙稀はラフな服装だが、その右腰にはしっかりと使い慣れた長剣を身に着けている。
ある部屋の前で足を止めた。手の平をゆっくりと開く。
いくつかの鍵がひとつの輪にまとまっている。その中からひとつを選ぶと、迷わずに扉を開けた。
一歩入ったそこは薄暗く、まるで物置のように骨董品が置かれている。通行を妨げるように置かれているそれらだが、人がひとり通れるほどの通路は確保されている。暗闇ではっきりと道筋を確認できないが、沙稀はためらわず狭い道を歩いていく。
歩き続けた先には、闇が広がっていた。沙稀は灯りなど必要ないかのように、暗がりに足を入れる。目をつぶっているも同等だ。しかし、ここでも沙稀の足に迷いは生じない。
しばらくまっすぐ歩き、ぼんやりと広がった空間が見える。細い道から部屋のような空間へと沙稀は出ていた。
だが、ここでも沙稀は足を止めない。更に奥へと足を踏み入れる。
何かに導かれているかのように歩いてきた沙稀がやっと足を止めたのは、壁を目の前にしたときだった。
真っ白なその壁は、ぼんやりと暗がりに浮かび上がり立ちふさがる。ただ、壁を目の前にしても、沙稀に動揺の色はない。かえって、沙稀はここを目指していたように感じられる。
壁にそっと手をあてた。
何かを探すように伝う左手は、左下に下がっていく。──すると、ゆっくりと真っ白な壁が音を立てずに動き始め、古めかしい扉が現れた。
隠し扉を前にしても沙稀は驚くことなく、再び手の中から正しい鍵を選択する。扉をゆっくり開けると光がこぼれ、沙稀を照らした。
その光はちいさなライト。三方向からある物を称え続けている光。光は赤紫の絨毯をも、心細く照らしている。
光が称えていたのは、掲げられている一枚の大きな絵画だ。絵画には左側にリラの長い髪の唏劉と、右側には今は亡き王妃が描かれている。扉を閉めずに、沙稀はその絵画へと近づく。
「……上、父上」
他にも何かを言いたげな、それでいて寂しそうな、誰にも見せない表情を彼は浮かべ、その場に立ち尽くす。強気で自信にあふれた彼の姿は、影も形もない。
『そのときです。天界が大きく揺れ、大神を守る女神も天界から堕ちてしまいました。そして、戦いの神は堕ちた愛の神を追って、地へと堕ちていったのでした』
「地の……国へ、女神は行ったのだろうか」
今の沙稀の心を埋めるものは、絶望なのだろうか。
絵本童話を恭良に話したときに辿った記憶。その記憶は、母との思い出だった。幼いころに、母と過ごした思い出の一部。大好きで、何度もこの絵本を読んでもらった。決して忘れたくない、大切な思い出だ。
母は言った。
「このときの女神が、楓珠大陸に伝わる女神様、女悪神だと言われているわ」
クロッカスの髪と瞳。知的で美しい母。彼は、いつでも母の自慢の息子でありたいと願っていた。
「白緑色の髪とアクアの瞳を持つ、あの女神様?」
「ええ。沙稀は別の大陸のことも、よく知っているわね」
母のうれしそうな笑顔に、幼かった彼は正解を言えたのだと密かに喜んだ。
すると、母は意外な言葉を言った。
「きっと愛の神は、女神様だったのね」
「女神様……ですか?」
「そうよ。そうじゃなければ戦いの神は、きっと追っていかないわ」
ふふん、と自慢げに言ったあと、
「ねぇ、女神様は幸せになったと思う?」
と、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、彼を幸せにしたものだ。
「はい。きっと……とても幸せになったんじゃないかと思います」
クロッカスが視界を覆う。──その他に残っている記憶は、母の声。
「ふふ、沙稀はお兄ちゃんよりも『お兄ちゃん』なのね」
双子が比較されて育つのを、沙稀はよく知っている。──沙稀も、双子だった。
双子が生まれる前、父は汚名を着せられ、この世を去っていた。ひどい処刑を受けたと大臣から聞いているが、詳細は知らない。ただ、見当は付いた。
父は、仕来りを破ったのだと。
父のいない双子は、母が頼りだった。
双子の兄は体が弱く、甘えん坊だった。沙稀にとって絵本童話を読んでもらうことが、唯一母に甘えられることだった。
母も兄同様、体が弱く、沙稀たちが七歳のときにこの世を去った。──そして、沙稀はすべてを失い、兄はいなくなった。未だに行方不明だ。
そう、沙稀の母は──。
「母上」
この絵画に描かれた王妃、紗如だ。
「沙稀様、ここにいらしたのですか」
ふと聞こえた声に、沙稀の視線は鋭く動く。
「待ち合わせをしていたわけでもないのに、ここで声をかけるとは……無礼だな」
扉の前にいたのは、大臣だ。大臣は一度、深く頭を下げる。
「申し訳ありません。ご報告を」
大臣は克主研究所へ行く手続きが滞りなく終了したことを告げる。そして、
「恭良様のご婚約の件ですが、克主研究所からお戻りになってから進めようと思います。……よろしいですか?」
と、問う。
「わかった。それで構わない」
サラリと返事をする沙稀に、大臣は少々不満げな表情を浮かべた。
「そういえば、恭良様に絵本童話を差し上げたそうですね。……驚きました。まさか、紗如様から譲り受けた絵本童話を、紗如様の遺品を……貴男が手離すとは」
「あれは、鴻嫗城の後継者が持つべきものだ。それに、絵本童話ならもう一冊ある」
それは、兄のものだ。ただし、兄が行方不明になってから、絵本童話の所在は確認していない。言うなら、沙稀の所持していた物も確認はしていなかった。
いや、確認できない場所にあると言った方が正しい。幼少期に過ごした部屋は、親族しか入れない区域に位置する。今の沙稀が出入りできる場所ではない。
「紗如様が生前お決めになった後継者の、沙稀様がおっしゃることです。私は反対しません。ただ、鴻嫗城の継承を恭良様に差し出されるのでしたら、三年前……恭良様が婚約のできる十六歳になられたとき……あのときに出た婚約話をどうして棒に振るような言動をされたのですか? 沙稀様なら、恭良様を納得させることができたでしょうに……」
「俺に、あの条件を呑むべきだったと? 俺は恭姫に、同じ日に結婚しろと言われたんだぞ」
「私はその条件が、どうしてそんなにも貴男の心を乱したのか、ふしぎでなりません。鴻嫗城の存続のためなら、何でも差し出す貴男が……」
大臣は思わず言葉を止めた。
九歳のときのような、鴻嫗城の剣士として生きることを選択させたときのような、憎悪に満ちた表情を浮かべていたからだ。
「そんなに俺の本心を聞きたいのなら、教えてやる」