【73】迫る終わり(1)
羅凍に声をかけ、忒畝は走っていく。羅凍は呆気にとられた。
「え……」
羅凍は振り返る。だが、すでに忒畝は走っている。状況を呑み込めないまま、羅凍は慌てて追う。
走りながら羅凍は焦っていた。忒畝の足が想像していたよりも速い。剣士として日々訓練をしていながら、なかなか追いつけない事実に意外だという思いと、若干の悔しさが混ざる。
やっとの思いで忒畝に追いつき、『待って』と言う代わりの言葉を出す。
「どういうこと?」
年上としてか、日頃から鍛えている身としてか、羅凍は焦りを隠す。
ただ、それは忒畝には無関心なことで、無意味だった。忒畝の脳内はこれから起こることへ向けられていて、そちらにしか今は稼働していない。
忒畝は少しだけ後方に顔を動かす。
「貊羅様、危篤なんじゃない?」
羅凍は驚く。なぜ、忒畝が知っているのかと。
羅暁城は公表していない。わざわざ羅凍を出向かせた捷羅が連絡を入れたとも考えにくい。愬羅は機転の利く状態ではないだろう。
忒畝の思考回路は計り知れないと羅凍は感心し、自身を冷静にするために何度かうなずいたあと、
「正解」
と苦笑いする。一方の忒畝には苦い表情が浮かび、叫ぶ。
「急ごう!」
羅凍は力強くうなずき、忒畝はそれを確認するとペースを上げる。
忒畝にとって貊羅は父の友人だ。何度か会ったことがあり、かわいがってもらった記憶もある。美男と名高い貊羅は、気品とやさしさにあふれていたが、気さくな人でもあった。
外見は羅凍と似ているが、内面から醸す雰囲気は真逆と言ってもいいほど大らかな人で、どこか父とも似ている。だからこそ、忒畝は貊羅を──いや、貊羅も救いたいと願う。
──恐らく、竜称に貊羅様を殺める気はない。……ないはずだ。
まだ竜称の真意に気づいていない忒畝を呼ぶ手段だと祈る。間に合ってほしい、その一心で忒畝は緋倉へと走り続ける。
このまま急いで向かえば、梓維大陸行きの船に間に合うだろう。
ふたりが緋倉に到着するころ、うっすらと明るい空に旗が揚がっているのが見えた。船の出向がこれからだという証拠に、ふたりは顔を見合わせ笑みがこぼれる。
一瞬の安堵。また、すぐに走り始める。乗り遅れたら意味がない。
人混みで賑わう夕刻前。忒畝は、人の波に流させないようにと進んでいたが、ふと、前方に見知った姿がある。羅凍だ。後方にいたはずの羅凍が搭乗の手続きをしていた。
「さすが長身の持ち主。人混みにまったく埋もれないね」
忒畝はひとりで笑い、気遣いに感謝しながら羅凍のところへと向かう。羅凍が忒畝を捜すことになれば、大変だろうと思いつつ。
羅凍からすれば、忒畝を迎えに来た身。それに、身分からすれば忒畝の方が断然上だ。当然のことをしているだけだが、忒畝がそれを当然と思うことはまずない。
「ありがとう。助かったよ」
忒畝にとって羅凍は昔からの友人であり、
「まぁ、図体がデカいのだけが取り柄みたいなもんだから」
羅凍にとって忒畝は、友人でいたいと願っているひとりだ。
笑顔で礼を言う忒畝に、羅凍は昔から変らないなとうれしそうに笑う。
無事に船に乗ったふたりは、個室で休憩をとることにした。あたたかい紅茶を頼み、カップから湯気がゆらりと揺れている。
梓維大陸に到着するのは数時間後。羅暁城は城下町と直結していて、船が到着すればすぐに着くと言っていい。
──夜になる前には到着できる。
忒畝は間に合うだろうと予測を立てて、口を開く。
「羅凍、念のため……克主研究所に来た経緯を教えてくれない?」
忒畝の問いに羅凍は一時目を開き、すぐに視線を伏せてポツリポツリと知りうることを話し始める。
「二週間くらい前に、倒れて……」
その姿は忒畝から見れば痛々しく見えるが、羅凍は父を思い浮かべるのが苦痛なだけだ。
「今は昏睡状態で衰弱している。兄上から悠畝前君主が亡くなる前と似た状態だと思うから、忒畝を呼んできてほしいと言われたんだ」
「昏睡で衰弱……」
復唱し、忒畝の視線も下がる。
──間違いない。竜称は羅暁城にいる。
「捷羅様が言う通りだ。父さんの亡くなったときに似ている気がする」
状況を聞き、父、悠畝が死を迎えたときと重なる。悠畝の死は母が関与していたと結論づけた。だが、まったく関係のないことだったと思いたい気持ちも忒畝の中にはある。
ただ、ここまで明確になってしまっては、見出した結論を受け止めるべきだ。重く辛い物事ほど、すんなりとはいかない。だからこそ、すぐにでなくていい。時間が必要だ。
時間が必要なことを、忒畝は無理強いしない。時間が解決してくれることは数多ある。受け止められることを、受け止められる分だけ受け止めていけばいい。そうすれば、いつかはまるっと受け止められているから。
「辛い状況を教えてくれてありがとう。僕は全力で貊羅様を助けられるように努めるよ」
忒畝はまっすぐ羅凍を見て、力強く言う。
羅凍には、力なく笑うことしかできなかった。
船は着々と進み、城下町に近づく。ふたりは出口の近くへと移動する。冷たい空気を忒畝が感じていると、遠くに大陸が見える。
煌びやかな輝きと雑踏を城下町に想像しながらも、忒畝の想像した町は、色も音も停止していた。
──まもなく、終わる。
忒畝は冷たい風を頬に受けながら、一度ゆっくりまぶたを閉じた。




