【70】解放と別れ
「竜称はいい人よ。本当に、あの人は悲しいほどに孤独しか知らなくて、幸せは崩れて、崩れていってしまった人だから……幸せを恐れてしまうの。悲しい人。でも、誰よりやさしく幸せに笑えるのよ」
今度は、はっきりとした口調。忒畝はうろたえる。なぜなら、口調は刻水のようなのに、『忒畝』と刻水が知るはずのない名を呼んだから。
望むように忒畝は呼ぶ。
「母……さん?」
にこりと微笑むその人は、母だと答えるようにおだやかな表情で。けれど、その瞳には今にもこぼれそうなほどに涙がたまっている。
記憶を取り戻したのか。いや、『刻水』の記憶を持ちながら『聖蓮』の記憶も蘇ってきたのか。母と答えた目の前の人物は、まるで『刻水』も『聖蓮』もどちらも自分自身だと受け止めているかのようであり──忒畝は言葉に詰まる。どれほど母が苦しんでいるのかと。
「忒畝、ごめんね。全部……忒畝の苦しみは、全部私のせい」
悲痛な母の声。
苦しみであふれそうな母からの懺悔は、忒畝を感情的に動かし──忒畝は思わず前のめりになる。
長年探し求めた、母がここにいる。
会いたかった。いや、会わせたかった。悠穂にも、父にも。会いたかったが、それ以上に会わせたかった。
切望するのは、家族の団らん。
食事をして、会話を楽しむこと。そこには、アップルティーの湯気が立っていて、香りは漂っていて、ほんわりとした空気で、おだやかな雰囲気で。
忒畝がいて、悠穂がいて。母がいて、父がいる。それだけでいい。
それだけでいいのに、『それだけ』が叶わない。
父が他界していて、悠穂は眠っていて。母は、これから──。
悔しい。望んでいるのは、日常の風景でありふれた光景なのに。
もう二度と手に入らない。
忒畝は知っている。もう、ずっと前から。だからこそ、望みを願うよりも──終わらせなければならない。
「僕は、母さんと父さんの息子でよかったと思っています。こんなにも幸せで……生まれてきたことを、後悔したことなんて、ありません」
聖蓮は、悲しく微笑み、首を振る。涙が頬を流れ、大粒の雫がボロボロと落ちていく。
「この血の苦しみに、巻き込んでしまった。四戦獣の清算を……忒畝、あなたに押し付けてしまった」
──この表情は。
忒畝は幼いころの記憶と重なる。母のこの表情を、幼いころに見たことがある。
あれは、当時三歳。あのときは、言葉の意味が理解できなかった。母が、何を言わんとしていたのか。
『今度会ったときは……私を殺して。ごめんね、忒畝』
──ああ、こういうことだったのか。
脳裏に母の言葉が再生され、忒畝は言葉の意味を理解する。あのときから母は、清算を望んでいたのだと。
咄嗟に取った物が憎らしい。手の中に、その術がある。
忒畝は握った試験管をぎこちなく見る。悠穂は、一口だけで眠りについた。セルリアンブルーの液体は、同量以上、残っている。
辛い。母との別れは──いや、別れをできるだけ、いいのではないか。悠穂は母との絆を求めたが、確認には至らなかった。父は、最期まで母を求めていた。ならば、忒畝はどうか。対面し、母の記憶は戻り、こうして対話している。別れは辛いが、母の願いを叶える術を手にし、母を救えるのは忒畝だけだ。
苦しい思いを込めるように、忒畝は試験管をグッと握る。
「もう、自分を責めるようなことを思わないでください」
視界が滲みそうになる。だが、忒畝は耐える。幼いころに母からコンタクトを入れてもらったときの約束を守るために。
右手を伸ばす。幼いころ、ともに過ごした時間を思い出しながら。
母がゆっくり両手を伸ばす。
母は、忒畝が他人と血の色が違うと恐怖を感じたとき、
「お母さんの瞳と同じ色ね」
と、笑って恐怖心を緩和してくれた。
母の手が、試験管に触れる。
母は少しそそっかしい人で、失敗しては照れるように笑う人だった。そう、本当によく笑う母だった。
忒畝の手から、試験管が離れていく。
幼いころの記憶は、やさしい記憶ばかりだ。
父がいて、母がいて。妹がいて──当たり前のようにずっとこの毎日が続いていくと思っていた。
「貴女には、いつも『幸せだ』と笑っていてほしかった」
後悔しているわけではない。ただただ、悔しい。
母を救う手立てが他にないことが。悠穂と母を会わせてあげられなかったことが。──これで、二度と会えなくなることが。
母が胸元でセルリアンブルーの液体が入っている試験管を、大事そうに両手で持っている。
もう、本当にお別れだ。
「今度は、是非……どうか、お幸せに」
母がゆっくり立ち上がる。『龍声』を一目見て、何かを言ってから前を向き直し、足を引きずって歩き始める。
忒畝は行き先を察知して、手を差し伸べる。すると、母は涙を流しつつも笑顔で忒畝の手を取った。母が向かうのは、悠穂が眠るベッド。
ベッドの前でひざまずき、眠る悠穂をやさしく見つめる。母は愛おしそうに悠穂の頭をなでた。
「悠穂、愛しているわ」
満足そうに笑うと、試験管の液体を一気に飲み干した。カツンと試験管は落ちる。
母の姿は次第に薄くなっていった。そうして、忒畝に振り返り、消える間際にこう言った。
「ありがとう、忒畝。愛しているわ」




