【69】守るべきもの
眠っている悠穂の頭をやさしくなでる。女悪神の力を失うまでの間、体は疲労が重なる。しばらく悠穂は、目を覚まさずに眠るだろう。
悠穂をベッドに運ぶときに置いた試験管に手を伸ばす。そのとき──忒畝の背後に緊張が走る。
──この気配は……。
鼓動が高鳴り、試験管に手が届かない。気配は、すぐ近くで感じ──つまり、この室内にあって。
動きを止めてしまった忒畝の背後から、拍手が聞こえる。そして、知っている声も聞こえてきた。
「おめでとう、忒畝」
やはり、気配の主は竜称だ。忒畝は意を決し、ゆっくりと体を竜称と向き合わせる。ベッドを背にし、悠穂を守るように向き合う。
竜称は不敵に笑っている。だが、壁に気怠そうに寄りかかっていて、忒畝の方に歩いてくる様子はない。
この様子に違和感を覚える。忒畝は竜称との決着を臨んで振り返ったから。悠穂に奇襲をかけられてしまったら、これまでのことが無になる。
竜称は拍手の手を止めると、警戒する忒畝を鼻で笑った。
「お祝いに、そろそろ刻水と龍声をお前に託してやろう」
大きな口を釣り上げて言うと、竜称は忒畝に向かって顎を上げる。不可思議な竜称の言動に、忒畝が警戒したまま視線を動かすと──そこには、母と、もうひとり女性が壁にもたれかかって座っていた。意識があるのか、ないのか。眠っているようにも見える。
ふたりを一瞥した忒畝は、視線を竜称に戻す。
「これで……今までのすべてを忘れろ、そう言うのか?」
忒畝の言葉に、竜称はフッと笑う。
「忘れられるものならな」
「あの子は誰だ?」
母はわかるが、もうひとりの女性はわからない。すると、竜称は意外な名を忒畝に告げる。
「知らないのか? 龍声だよ」
微かに笑う竜称。
『龍声』──忒畝の脳内で、様々なシーンが断片的に降り注ぐ。
「お姉ちゃん。元の生活に戻っても、ずっと、ずっと一緒にいようね」
竜称を救った少女。あれは、六百年前の──彼女たちの決死の戦い。その最中に、屈託なく笑う明るい少女。
「私はコードNo.91802」
琉菜磬と同じく、『造られた』少女。
「大切な人と、もう一度、一緒に生きたいと思わないの?」
どんなときも、望みを捨てずに生きていた少女。
──けれど、龍声は……最期に自害したはず。
「うん……。でも私のこと、わからなかったみたい。ぼうっとしてて、ほとんどひとりの女の人と一緒にいた」
この声は、悠穂の声。
「きれいな人だったよ、お母さんと一緒にいた人。龍声って呼ばれてた」
忒畝の脳内でちぐはぐだったものが合わさろうとする。けれど、決定的な何かが不足していて、完成しない。
そのとき──。
「あとは、私ひとりで充分だ」
聞こえたのは、竜称の声。
いつの間にかうつむいていた忒畝は、顔を上げる。──その視線の先に、竜称の姿はなかった。
消えた。だが、母と『龍声』は、同じ場所にいる。
竜称の狙いは、復讐だと忒畝は推測していた。人々への復讐だからこそ、高貴な場所を狙うと。その予想通り、悠穂を捜していたときには鴻嫗城で騒ぎが起きた。
けれど、それさえも竜称の上で踊らされた感が残っている。
──僕は、竜称を誤解していたのか?
『龍声』に対する疑問が解決しそうな中で、竜称に対する核心が崩れていく。
六百年前の戦いの最中、龍声は竜称にとって、支柱だった。その『龍声』を、忒畝に託すと竜称は言った。
忒畝の心がざわつく。
──何かを、見落としている?
懸命に脳内から欠片を見つけようとしたとき、母が目をうっすらと開けた。忒畝はまだセルリアンブルーの液体が残っている試験管を手に取る。
ゆっくりと近づいていっても、母は混濁しているのか特段反応がない。母のとなりでは『龍声』が眠っている。
──真実は、一体……何が正しいのか。
忒畝は龍声をよく見ようと足を出す。すると──。
「私の子に……近づかないで」
母の声にドキリとする。忒畝は体が動かなくなった。
母の子は忒畝と悠穂だけのはず。どういうことかと、忒畝は立ち止まったまま『龍声』を凝視する。
『龍声』は悠穂より年上のようだが、忒畝よりも上とは思えなかった。
──もしかして。
忒畝は、『龍声』を『私の子』と言ったと思考を巻き戻す。
──母さんは今、『聖蓮』の記憶はなく、『刻水』なのだろうか。
母に忒畝が視線を移しても、母は虚ろな瞳のまま。──つまり、忒畝に反応しないのは、記憶にないから、知らない存在だからだと結論付けた。
その方が理屈が合うからだが、表情は素直なもので。複雑な表情を忒畝は浮かべる。
忒畝は足を動かし始める。今度は母、いや、刻水に向かって。刻水の前まで来ると、片膝を床に置く。
「間違いなく、貴女の?」
忒畝を見上げていた刻水は、言葉を知らない子どものように、コクンとうなずく。刻水の返答が、忒畝を導いていく。
──もしかして、刻水さんは妊娠したまま封印された?
刻水は愛する克主に封印された。封印から目覚めて、父、悠畝と出会った。──そのときには、すでに『龍声』を身籠っていたとしたなら。
悠畝と出会い、刻水は『聖蓮』と生まれ変わる。それは、刻水が名も憶えていないほど、何も記憶がなかったからで。
ふたりが結ばれ、忒畝が生まれ──恐らくは封印による弊害。妊娠初期で封印された体は、本来ならあり得ない排卵があった──これらは仮定にすぎないが、忒畝と同時かすぐあとに『龍声』が産まれたとするなら、辻褄が合う。
──竜称は、聖蓮となっても『刻水』を見守り続けていた?
竜称は仲間である刻水を心配していたのではないか。過去を見てきた忒畝だからこそ、これまで思いもしなかった考えが浮かんできた。
『刻水』の記憶がない聖蓮を見ていた竜称は、刻水と克主の子である『龍声』を、もしかしたら──。
──連れ去った?
忒畝は新たな答えに辿り着こうとしていた。それは、あまりにも思いもしなかったことで。忒畝が動揺しそうになったとき、
「忒畝」
と母の声が聞こえた。




