【68】『家族』(2)
安堵の息がもれる。
そういえば、父の夢を見たのは久しぶりだった。父は、この祝福をしてくれたのだろうかと、想いを馳せる。
今でも、おだやかな父が心の中にいる。そう思えば、忒畝の胸に抱えた穴は弱々しくも塞がる。そっと胸に右手をあて、心があたたまっていくのをじんわりと感じる。
忒畝は幼いころから、父の近くによくいた。母がいなくなってからは尚更。抱えられて、本を読んでもらった。
歌や絵本、数字や文字──忒畝のすべては父が教えてくれたものだ。覚えがゆっくりな忒畝に何度も何度も繰り返されたやさしい声。
あたたかく、幸せな空間──父のいる空間が、忒畝のすべてだった。
父は仕事中も来客のときも、忒畝を近くに置いた。それは、他人から見れば非常識だったかもしれない。
初めこそ悠穂を身籠った母、聖蓮の負担を減らすためだったのだろうが、悠畝は忒畝の異変に気づいた。忒畝は慣れない人がいると笑う以外はせず、ただただ大人しい。
忒畝は人懐っこく、よく笑う子どもだった。けれど、それは見せかけで。本当は毎日会うような人しか判別できず、いや、それもなかなかできず。話の理解にも欠け──忒畝は笑っているしかできなかっただけだった。
本当は人見知りだと忒畝を判断した悠畝は、わざと外部の人と会わす機会を多く設けた。他には、ゆっくりとたくさん話しかけ、忒畝の反応を確認して育てた。
大人しい忒畝を支えるように、常にそばにいてくれていた。──それが、幼いころ理解するのに時間のかかった忒畝には安心に繋がり、父は大きな存在となっていた。
父を失ってから、忒畝は心の拠り所をなくしたように、その大きくあいた穴を埋められずにいた。今朝のように時折、悲しみが強く襲ってくることもある。父を捜しさまよう感覚。──おだやかな父のようにやさしく成長したと言われる今でも、忒畝にとって父は偉大な存在。
忒畝は胸にあてた右手を下ろし、前を向く。父のように、強くありたいと願って。
成功した結晶が、数本の試験管の中で輝いている。注射で投与をしなくても、服用でも同等の効果が見込める物ができた。その一本を左手で取り、忒畝は妹の部屋へと向かう。
数回ノックをすると、かわいらしい妹の声がして扉が開く。ひょっこりと現れたのは、大きなアクアの瞳。白緑色の睫毛で飾られ、その上部には同色の前髪が揺れている。
「悠穂、ちょっといいかな」
「うん。どうぞ、お兄ちゃん」
悠穂はにこやかに笑い、明るい声で忒畝を招く。室内は植物をモチーフにした柄が多く、明るい彼女からすれば落ち着いた雰囲気の部屋。家具は木目調で、統一感もある。
忒畝は悠穂をソファに座るように手を向け、自身も座る。となりに並ぶと、『女悪神』の『力』を解放する術について話し始める。
これまで女悪神の『力』解放する研究を続け、忒畝の血から血清を作れたこと。悠穂に投与すれば、しばらく眠りにつかなければならないだろうこと。眠っている間に女悪神の『力』から解放され、瞳はアクアではなく、父と同じ薄荷色の瞳になるはず。
黎馨のこと、前世のことは言わないように避けた。悠穂の前世は、母と父、そして忒畝とも深く関わっている。もし、忒畝のように過去生の一部でも思い出してしまったら、悠穂も辛い思いをしてしまう。大事な妹に、前世の記憶を呼び起こさせたくはなかった。
悠穂は、忒畝が握る試験管を見つめると、一度、目を伏せた。そして、再び忒畝を見た悠穂の瞳には、悲しみが滲んでいた。
「お母さんや、竜称さんが使ったら……救われる?」
悠穂は、兄に絶対的な信頼を寄せている。真っ先に血清を使うのが怖いのではない。
母やその友を悠穂は心配していた。できれば忒畝と一緒に見守りたい、いや、母には寄り添っていたいのかもしれない。
悠穂が血清を使用すれば、しばらく眠る。つまり、母に会えないと察しているのだろう。
悠穂の気持ちは伝わり、忒畝の表情は同じように悲しみを浮かべる。忒畝は、悠穂を少しでも危険にさらしたくない。女悪神の力が覚醒するきっかけも、忒畝は知っている。
「女悪神の力が覚醒をしていても、『力』を失わせることはできる。元の姿にも戻れるかもしれない。だけど……」
悠穂が感じ取ったように、母にはもう会えなくなると伝えなくてはいけない。
「時は、止められない」
悠穂は鴻嫗城で見たと言っていた。忒畝のように想像ではなく、記憶の再生をしているだろう。ゆっくりとまぶたを閉じた。
忒畝の言葉が、部屋に重く残る。深い悲しみがふたりを包む。──六百年という時間の重み、それには逆らえない。
邑樹と時林は、死とともに時を取り戻して消えてしまったと悠穂は言っていた。現実は、夢物語のようにすべてが幸せな結末を迎えるわけではない。
「そっか。でも、『四戦獣』からは解放してあげられるんだね」
兄の叶えてくれる幸せだけで充分だと、悠穂は微笑んだ。それは、よかったというような笑顔で、少し泣いていた。
「悠穂……」
悠穂は忒畝が思っているよりも、ずっと大人になっていたのかもしれない。自我を失ったままの邑樹と時林を、いたたまれなく思っていたのだろう。
せめて『人間』として死を迎えてほしかったと強く思ったのかもしれない。──過去生を、六百年前の彼女たちを見た忒畝には、その思いが痛いほどにわかる。
「お兄ちゃん、ありがとう」
瞳にたくさんの涙をため、悠穂は試験管の青い液体を一口含む。悠穂は意識が朦朧としたのか、瞬時、前に倒れそうになった。忒畝は反射的に悠穂の肩を支え、手元から落ちそうになった試験管を受け取る。聞こえるのは、静かな寝息。
深い眠りに落ちた悠穂を、忒畝はやさしくベッドへと運んだ。




