【68】『家族』(1)
甘くやさしい香り──アップルティーの香りが忒畝の鼻腔を通っていく。心安らぐ空間、幸せなひとときだ。
忒畝は、父の好きなアップルティーをいつも一緒に飲んでいた。日々の些細な出来事を話す。父はにこにこと聞いてくれる。
父は昔からそうだった。忒畝が話すのを楽しそうに聞いてくれて、時間を忘れるほどだった。いつのころからか、アップルティーを飲むと心が安らぐようになり。微かに甘い香りが、あたたかさと幸せに包んでくれるようになっていた。
父を目の前にして、会話は弾む。自然と笑顔になる時間は充実していて、あっという間に過ぎ去っていく。
忒畝は何となく、そろそろ戻らなくてはと思った。そのとき、ふと感じた視線に意識がいく。
「と……父さん?」
それは、父の視線。
悠畝はどこかぼうっとして忒畝を見つめていた。困惑した声に、悠畝はゆったりと微笑む。
「ん?」
いつものおだやかな笑顔──だが、忒畝は何かが違う気がした。
「ど……うしたのですか?」
忒畝は戸惑う。すると、悠畝はふふふと笑った。
「かわいいね。つい、見とれちゃう」
父の言葉に、忒畝は紅潮してしまう。
相手は父であり、男性であり──いや、尊敬している人物だからこそ、ずっと見られたら照れてしまうわけで。
父のようになりたいと思って、忒畝は憧れの眼差しで悠畝を見ている。そんな人に見とれられているなど、恥ずかしくて仕方ない。
一方の悠畝は、忒畝が照れていることにお構いなしで。まったくもってマイペースだ。
「聖蓮に似ているね」
幸せそうに微笑む。
母は女性であり、忒畝は息子で。けれど、父の言う通り、髪と瞳の色は母譲りで。いや、忒畝の瞳の色は、コンタクトで父と同じ色にしている。だから、髪の毛の色くらいしか母と似ているとは言えないはず。
それに、忒畝は父に似ていると言われることはよくあるが、母に似ているとはまず言われない。
だからこそ、父の言葉を再確認する。
「僕が、ですか?」
「うん」
悠畝は頬をゆるませる。その表情は、好きな人を前にしたような表情に見えて。忒畝の感情は照れと戸惑いが混ざり合う。
父が幸せそうに笑ってくれるのは、うれしい。だが、返せる言葉を見つけられない。焦りが沸く。すると、また悠畝はふふふと笑って口を開く。
「その、すごく純粋なところ」
忒畝は目を丸くする。──そう言われたら、何も言えない。
確かに、忒畝の知る母もすごく純粋だ。ただ、複雑でもある。忒畝は母を思い返したとき、どこか抜けていると思っていたのだから。雲のようにつかみどころがなく、フワフワした人だった。
そういう意味でも、やはり、似ていないと判断してしまって。忒畝は気持ちのかけ引きをしてしまうことがあるし、打算的だと自己分析をしている。勝算なく踏み込むことはしない。石橋を慎重に積み上げてから、更に叩いて渡るタイプだと自身を言い表すだろう。
純粋とは遠く、むしろ純粋とは父のような人にこそある言葉だと、忒畝が口にしようとしたとき──。
「愛しているよ、忒畝」
それは、悠畝が口癖のように、毎日欠かさず言う言葉。忒畝は思わず思考が飛び、自然と満面の笑みが浮かぶ。
「はい」
ああ、父の息子に生まれてきてよかった──そう、感じる瞬間。揺るぐことのない、幸せな空間。
ふと、忒畝は目を開けた。目の前に見えたのは、見慣れた天井。体が包まれているのは、日常的に使用しているベッド。
視界は明るいが、思考が停止する。その間、五秒。
思考が働き始めた忒畝は、すぐさま起き上がる。慌ててベッドから出て、部屋の扉に手を伸ばす。──急いで部屋から出て父の部屋に行けば、父が待っているような気がしていた。
しかし、ドアノブを握った瞬間、現実に戻る。
──あり得ない。
自制。あれは夢だと判断して。そう、父が亡くなる前の、まだ元気だったころの夢を見ていただけだと判断した。
握っていた手から力を抜く。伸ばしていた腕を、ダラリと下げる。
父がいない──その現実は重く、辛い。
悠畝が亡くなって二年が経った。二年も経ったという人もいるだろう。けれど、忒畝には過ぎていく年月は空しいだけだ。
『あのおだやかな日々に戻りたい』と忒畝はどうしても願ってしまう。もちろん、願っても叶うものではないとわかっている。常識は覆らない。常識を覆そうとも思っていない。死は生き物すべてにおいて尊厳だ。蘇生を願っているわけでも、不老不死を願うわけでもない。
それでも、父にいてほしいと願ってしまう。
──現在このときにとどまることすらできないのに……。
二年前に父を看取ってから、忒畝は無理に歩みを進めてきた。例えるなら、それは足を引きずるような歩みだった。
歩いてきた道を振り返れば、血の跡がべったりと見える。
胸には大きな空洞も。その、大きく胸にあいた穴から、止まらずにしたたり続けた血の跡だ。
忒畝は立ち止ろうとはしなかった。現実の状況を呑み込み、父の息子だと誇りを背負い、歩き続けた。
悠畝は『強くて自慢の息子だ』と、忒畝を言い表していたから。
忒畝は自身では弱いと思いながらも、父がくれた言葉があれば強くいられる。強くいたいと奮い立てる。
重い足どりで流しまで行き、グラスに水を入れる。一口だけ飲み、グラスをその場に置く。そうしてゆっくりと着替え、職場へと赴く。
黎馨との分析は、実を結んでいた。試験管には透き通るセルリアンブルーの液体が並んでいる。これで『女悪神』の柵を解放できる。




