【64】侵蝕(2)
──凪裟さんをこうさせてしまっているのは……。
己のせいではないのかと。
捷羅は公の場の一人称が『私』、家族や近しい間柄では『俺』と無意識で言っている。それは、愬羅の教育の賜物なのかもしれないが、無意識で言っているからこそ捷羅は気づいて驚いた。
──距離が遠いままだったのは、俺の方だった。
心を見せないままでいたのは捷羅の方で、凪裟はそれを感じていただけかもしれない。
そう思えば、捷羅には申し訳なさが湧いてきて。発言に至らずによかったとちいさく笑う。
捷羅は自覚していた以上にショックを受けていた。プロポーズと思って言ったことに対し、『羅凍は?』と返ってきたことに。そこから歩み寄れなくなって──仕方なかったのかもしれないが、言い訳だった。
要は、心は要らないと思いながらも、心がここにないと感じて傷付いた。もっと傷付きたくなくて、避けた。──それだけのこと。
クスリと笑った捷羅に気づいたのか、凪裟の視線は上がっていた。それを捷羅は満面の笑みで返す。
「またお会いできる日を、楽しみにしていますね」
それは、凪裟を出迎えたときと同じ笑顔で。──凪裟は頬をそめて照れ笑いをした。
そうしてふたりは時間の許す限りゆっくりと城下町を歩き、凪裟は名残惜しそうに船に乗った。
三日後。梓維大陸には雨が降っていた。所々に残っていた雪が溶けてなくなるくらいの大雨だ。雨粒が忙しなく窓に打ち付けている。
捷羅は愬羅に呼ばれていた。何で呼ばれたのか、見当が付く。恐らくは、凪裟の検査結果だ。
部屋に入れば、愬羅は捷羅を一目見て、にっこりと微笑む。一枚の紙を持つ愬羅は、ずい分とご機嫌で。
それは、捷羅に嫌な予感を持たせた。
「これで、諦めがつくでしょう?」
愬羅が引導を渡す。スッと差し出される、一枚の紙。
受け取るしかない捷羅は、右手でその紙を受け取る。手元に視線を落とし、落胆の息を吐く。
目を疑っても、信じたくなくても、愬羅の楽しそうな態度が嘘ではないと、その紙に記された文字が現実を捷羅に突き付ける。
捷羅にとっては、結婚はただ単に形式だ。それでいい。それに、表面上だけでも幸せを取り繕うことができればそれで構わない。
両想いなんて、奇跡だ。奇跡が起こるなんて信じていない。誰かに愛してもらえるとも、思っていない。
愛は幻想だ。愛がなくても子が授かることもあるし、無事に生まれることもある。本能に身を任せればいいだけのこと。
そう、それでいい。
一喜一憂するような、心なんて要らない。
愛がなくても子が授かれればいいし、無事に生まれてくれればいい。羅暁城の嫡男として、必須なことだから。そう、だから心がなくても、責務さえ果たせれば。
いや、果たさなければならないことで。
愬羅に返せる返事は、ひとつしかない。責務を果たすために捷羅は教育を受け、後継者として育ち、生きてきたのだから。
答えは、決まっている。
愬羅の言うように『諦める』一択だ。他はない。
けれど、捷羅から出た言葉は──。
「いいえ、諦めません。次は、自分で選ぶと……母上も了承してくださったでしょう?」
愬羅の表情が変貌する。
絶句する愬羅に、捷羅は更に告げる。
「俺には……」
捷羅は愬羅の返事を待たずに、踵を返す。
静かに閉まる、扉の音。
愬羅は呆然とし、扇子を落とす。
『俺には、『保険』があるのですよね?』
『保険』──それは、愬羅が羅凍に言ってきた言葉だ。捷羅に万一のことがあったときの場合として。
例えるならそれは、捷羅の絶命。例えるならそれは、捷羅に世継ぎが授からなかったとき。愬羅は羅凍に後者の意味で言っていたが、もし、捷羅が聞いても前者で捉えると思っていた。
愬羅は震えながら扇子を拾う。そうして、バサっと扇子を広げ──高々と笑った。
どう伝えるか悩めば悩むほど、捷羅は哀萩の熱に解けていく。しっとりと解け、トロリとなれば──心地よさだけに包まれて、悩みを飛ばすことができるから。
そんな夜を何度か過ごしたある日のこと。
解けた余熱を残したまま、哀萩が珍しく言葉をかける。
「ねえ、凪裟さんとは……結婚するんでしょ?」
感情を押し殺したような声。
哀萩に悩みの種は言っていない。だからこそ、哀萩は戸惑っているのだろう。
週に一回、多くても二回だったことが、二回、三回と間隔が短くなり増えてくれば、おかしいと感じて当然。
「そうだね。……断られなければ」
断定しない答えは、相手に委ねた答えは、卑怯だ。
けれど、それを指摘できる哀萩ではない。
「凪裟さんとは、その……もう、したの?」
ストレートな言葉を投げた手前、哀萩はすぐに引き下がれないのか。ここではっきりさせなくてはと思っているのか。はたまた、早いうちにピリオドを打たなければと思っているのか。
話題を引き下げない哀萩に、捷羅は質問で返す。
「どうして?」
質問の真意を探られ、哀萩は視線を泳がせる。妥当な言葉を探してか、哀萩の口はすぐには開かれない。
言いにくいことを聞いたあとだ。何でもないと話を流せないのだろう。
これまでも捷羅は、他の女性と関係を持ったことがある。だが、哀萩はそれに気づいても捷羅がその気を見せれば受け入れるだけで、他の女性との関係を言及してくることはなかった。
だからこそ、捷羅にとっては純粋な疑問でなぜかと聞いただけなのに、哀萩の受け止め方は違うようだ。
責められたと感じれば、人は責め返したくなってしまう。哀萩は慎重に言葉を選んでいるだけなのかもしれない。哀萩は、捷羅を傷付けまいと過敏だから。
ふと、哀萩がちいさく息を吸う。
「もし……もしよ? そうなら、凪裟さんを傷付けるようなこと、私……」
「まだ、してないよ」
サラリと捷羅は答える。
フワリと部屋を包むのは、沈黙。この返事では、哀萩に話の舵はとれない。けれど、離してしまえばこの関係を断ち切る日がまた遠くなると思ったのか、哀萩は食らい付く。




