【59】兄と罪、罪と弟
羅凍はもっと色んな人を見れば、哀萩だけを特別視しないのかもしれないと城下町を出歩くようになる。
十七歳になると、S級剣士になった沙稀を知り、憧れて剣を嗜むようにも。
けれど、哀萩への想いは消えずに残っていて。身分が違うというよりも前に。己の意思で結婚できる立場ではなく。養女とした父に養子縁組を切ってほしいと意見できるわけでもなく。
そうこうしているうちに、あっという間にまた一年が過ぎて。羅凍は母、愬羅に部屋へと呼ばれた。
体にまとわりつくような黒のマーメイドドレス。その上には、魔女を連想させる襟の立った紫のジャケット。手には扇子。唇には真っ赤なルージュを、目元には大きな睫毛。アイシャドーも唇と同じ色。
頭が大きく見えるような束ね方の黒い髪は、まるで権力を誇示しているかのようで。更に金の髪飾りまでしていて。足元も抜かりなく金を飾るその姿は、まさに『女帝』と呼ぶに相応しい。この女性こそ、羅凍が恐れる母、愬羅だ。
部屋に入ってまもなく、愬羅の言葉に羅凍は耳を疑う。
「今日から城内で過ごしなさい」
今まで隔離しておいて、唐突に何を言っているのか。なぜかと疑問が浮かんでも、嫌だとどうにか拒否をしたいと思っても、羅凍が愬羅に対して咄嗟に言葉を出せるはずもなく。
一方の愬羅は、
「部屋から出れば、案内する者が待っているわ」
と、羅凍の意見を聞こうともせずに。実に一方的で。
「はい」
とだけ、羅凍は返事をする。母に反論や意見はできない。それに、了承の返事さえすれば、早くこの場を去ることができると羅凍は最小限を選んだ。
話が終わったのなら一刻も早く母の部屋を出ようと、煌びやかなシャンデリアの下を通過したとき、
「そういえば」
と母の呟きにギクリとして足を止める。──今日に限って、話はそれだけではなかったのかと羅凍は振り返る。何かと問うことはせず、母の機嫌を損ねないように、ジッと母の言葉を待つ。
すると、愬羅は満足気に微笑んで。真っ赤な唇を細い三日月のように細めて開く。
「捷羅が妻を娶ったのよ。めでたいでしょう?」
愬羅はフワフワした扇子を広げて、優雅に仰ぐ。扇子を覆っているのは、うさぎの毛。
「はい。おめでとうございます」
深々と頭を下げる。──そうか、兄の結婚する人だと紹介を受けることも、結婚式に参列することもなかったのか。そんなことが頭を過る。すると、重なるようにこれまで言われてきた言葉も次々に浮かんできて──。
『捷羅という、双子の兄がいるのよ。会うときがあったら、きちんと『兄上』と呼びなさい』
『捷羅はね、羅暁城の大事な嫡男なの。わかる? 第二子のあなたとは、まったく立場が違う人なのよ』
『第二子の役割って、わかっているかしら? 万が一の『保険』なのよ。その意味がおわかり?』
母から言われてきた『教育の言葉』。羅凍は母の前だからと震えないようにと必死に我慢して、深呼吸をし、ようやく上半身を起こす。
愬羅は、羅凍を見て首を何度も傾げた。それはそれは、不満気な表情を浮かべて。
何か言われるのかと羅凍が身構えていると、
「もし、捷羅に会ったら……同じようにお伝えするのよ」
と、つまらなさそうに言って、仰いでいた扇子を羅凍に向けて振った。
──下がって、いいのか。
そう解釈した羅凍にとっては、愬羅の言動は『安堵』で。一礼をして、羅凍は退室する。
愬羅が言っていた通り、部屋を出ると使用人がひとりいて。
「ご案内します」
と、一礼して歩き始める。
右側の奥が親族の部屋だと羅凍は知っていた。父の部屋も母の部屋もそこに位置するから。けれど、使用人が歩き始めたのは、羅凍が来た方向で──城内に呼ばれても、尚、そういうことかと羅凍は胸が痛む。
痛んだ胸に、落胆する。
期待しているつもりはなかった。けれど、期待していたということだ。家族として、迎え入れられることを。
未だ兄には片手ほどしか会ったことはない。そういえば、二回目に会ったときに、兄は開口一番に謝っていた。
「会いに行けなくてごめん」
その一言だけで、内緒で会いに来てくれたと、母に秘密だったと伝わって。母に見つかってしまったから来られなかったのかとも伝わってきて。うれしくて、羅凍は首を横に振った。
その日はまだうれしいことが続いて、兄は何かと名を呼んでくれた。ぎこちない態度しかとれなかったが、羅凍はフワフワと夢心地だった。
あれは、忒畝に初めて会った日だ。忒畝が悠畝に連れられて、初めて遊びに来たとき。忒畝は歩くのがやっとというくらい、ちいさいときで。
父、貊羅に初めて会った日だった。
父が呼んでいると使用人に連れられて、城内の温室に入った。そこは一面のシロツメクサで──立ち尽くしていたら、捷羅が来た。
うれしくなって、でも言葉は出なくて。シロツメクサを使って花冠を作り始めて。兄が凄いと褒めてくれた。
そうしているうちに、父が来て。そこに悠畝と忒畝がいて。初めて父に呼ばれて緊張したが、友人の悠畝にいい顔をしたかったのだろうと、忒畝をかわいいと言う貊羅を見てぼんやりと思っていた。
ああ、自分たちは、こんなにも両親から愛されていないのか──とも。
城の正面入り口に差しかかったとき、捷羅がそこにいた。羅凍は母に言われたことを思い出し、使用人より先に前に出る。
「この度は、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
兄はとても幸せそうに笑っていて。そして、小声で羅凍に告げた。
「ふたりだけのときは、そういうの……いいからね」
やさしい兄──そう、捷羅は羅凍にとって、やさしい兄だった。
背後の右側から階段の上がってくる足音が聞こえて、羅凍は振り返る。そこには、見知らぬ女性がいて、羅凍を見てなぜか大きく目を見開いた。
羅凍は初対面のその人が、捷羅と結ばれた人だろうと推測し一礼する。
「禾葩さん!」
喜々とした声を出し、捷羅が横を通過した。──純粋な捷羅を羅凍が見た最後の日。
一ヶ月もしない内に、想定外なことが起きて。捷羅は壊れたのだろう。そして、哀萩を──。
何週間かして捷羅の部屋が変った。羅凍はそれを知らずに城内を歩き回っていた。すると──。
「貴男が、俺たちのことを愛してくれていない理由が……ようやくわかりました」
初めて聞いた捷羅の怒りの声。羅凍が足を止めると、父の部屋がわずかに開いていて。やさしい兄が、何をそんなに怒っているのかと羅凍は父の部屋に近づく。──そこで羅凍は、衝撃的なことを知る。




