【57】すれ違う想い(2)
「懐かしい」
「俺もこれ好き。うまいよな」
長居をすれば、周囲の目に付く──と羅凍が意識をすることはないだろうが、羅凍は歩き始める。今度は、ゆっくりと。すると、哀萩は歩幅が合うのか、羅凍と並ぶ。
クレープを頬張りながら、羅凍は横目で哀萩を見る。──彼女はちいさくかじると、自然と口角が上がっている。クレープに注がれるやさしい視線に、つい見とれる。
「うん……おいしい」
哀萩は母を思い出しているのだろう。母と何度かこの城下町に来たことがあると言っていた。思い出の味と言ったところか。
哀萩は国王、貊羅の養女──戸籍上は。
貊羅に引き取られたのは四歳。哀萩の母、櫻が亡くなってまもなく羅暁城に来たと、初めて出会ったときに羅凍は聞いた。当時、羅凍は六歳だった。
「元々俺、城内の食事って口に合わないし。こういう物の方が好きだ」
王妃──捷羅と羅凍の母は『愬羅』。政略結婚だった夫婦はもはや仮面夫婦だが、愬羅は貊羅を愛して止まない。羅暁城に相応しくなりたいと、『愬良』から『愬羅』に改名して結婚したほどらしい。羅凍からすれば、狂気の沙汰。
貊羅はフェミニストで有名な王だった。羅凍たちが物心つくまでは。貊羅は愬羅と結婚してから変わったと何度も耳にした。結婚して大きく変わったことは、それだけではなく。国のことを愬羅に一任、今では公務は捷羅が担っている。城から滅多に出ないどころか、部屋から滅多に出ない。友人の悠畝が亡くなってからは更に。食事すらも使用人が部屋に運んでいる。
貊羅は愬羅を愛さず、態度は露骨に冷たかったのだろうと羅凍には推測できる。恐らくは、捷羅と羅凍に対する態度と同じか、それ以上に──それが王妃、愬羅の愛を歪ませたのだろうとも。
その歪んだ愛情を感じて育った羅凍には、母を亡くして悲しむ哀萩の気持ちは理解してあげられない。ただ、いい母だったのだろうと思うくらいしかできない。
「本当おかしいよね、羅凍って。何ていうか、貴族らしくないし……」
哀萩はといえば、羅暁城に来た当初は貊羅だけが頼りで。今でも、貊羅と唯一、いつでも会える存在で。だからだろうか。王妃、愬羅に疎まれている。宮城研究術師として優秀なのに克主研究所と交流を持てないのは、愬羅を気にしているからに他ならない。
「普通は昔から食べている物の方が、口に合うんじゃない?」
「それだけ、俺には羅暁城が合わないってことじゃない?」
哀萩は言葉を呑む。──羅凍が幼少期を、城内で過ごしたのではないと知っているから。羅凍が城内で暮らすようになったのは、十八歳になってからで。
賑やかだった声が遠ざかる。羅凍は来た道を戻っていて、いつの間にか城の裏口に続く草原に来ていた。『ちょっと付き合って』と言った『ちょっと』は、本当にわずかな時間だったようだ。
羅凍は感情を偽る人ではない。無邪気で、いつもストレートな言葉をぶつけてくる。行動にしても。
ふと、哀萩は羅凍を見上げる。
羅凍は正面を向いたままだ。哀萩を見ることなく、クレープを食べている。──哀萩は視線を正面に戻すと、羅凍の左手に包まれた右手をスルリと抜く。
今度は羅凍が哀萩を見る。
彼女は何もなかったかのようにクレープを食べている。──羅凍は、再び彼女の右手を握った。すると、
「やめて」
と、哀萩は冷たく言い、立ち止まる。羅凍も止まり、手を握ったまま口を開く。
「俺の気持ち、知ってて一緒に来たでしょ?」
「無理に引っ張ってきたんじゃない」
「いいじゃん、たまには笑顔で付き合ってくれたって」
哀萩は静かに手を振り払う。無言で歩き出せば、羅凍も横に並んで歩いていく。
「いい加減、結婚すればいいのに」
「俺の気落ちを知ってて、そういうこと言うんだね」
残りを口に無理に押し込み、一気に食べる。これではクレープに八つ当たりだ。
哀萩は何も言わずにマイペースで食べている。一時の幸せそうな表情はどこへやら。不快な感情が顔に滲み出ている。
「いつまで……兄貴の近くにいるつもり?」
悲しみの詰まった羅凍の声。
「羅凍には関係ないでしょ」
返ってきた哀萩の言葉は、棘だらけ。だからこそ、ふたりの会話はY字に逸れていく。
「見てられない」
「じゃ、見ないで」
「目に付くって言ってるの。俺が、哀萩を好きだから」
哀萩は目を閉じ、ため息をつく。一瞬の静寂。
「私が早く出ていけばいいのね」
切り裂くのは、哀萩の諦めたような声。
「俺も一緒に行く」
「私はひとりで出ていくのよ」
すがる言葉を一刀両断し、哀萩の足は加速する。
羅凍は立ち止まる。足を止めて、彼女の背中を見つめた。
当たって砕けるなど、もう何年も繰り返してきたこと。押して駄目ならと、引いてみたこともあった。だが、彼女は離れていくだけだった。
何をどうしても、心の距離は広がっていく。それは、今の光景のようで──羅凍は彼女の背中に向かって走り出す。
無意識で手が彼女に向かって伸びる。右肩に届けば、その肩を引き寄せて。左腕は鎖骨の下に回っていて──哀萩は後ろへと引き寄せられる。
「俺にしろよ」
熨斗目色の髪も、緑のマントも、白いワンピースの裾も、大きく後ろに揺れて振り子のように一度、前方にも大きく揺れた。揺れは次第にちいさくなって、やがて重力に従う。
背後から抱き寄せた羅凍は、覆いかぶさるように哀萩を離そうとはしない。
「羅凍は、何もわかってないのよ」
哀萩は肩に回されている羅凍の右手首を握る。力むその手は、明らかな拒否。哀萩の力では、羅凍の力に太刀打ちできない。
「いい加減、離してくれる?」
呆れる声に、羅凍はゆっくりと腕を上げて哀萩を逃がす。スルリと抜けた哀萩は、何事もなかったかのように羅暁城へと歩いていく。
今度は、凪裟が羅暁城にやってくる。哀萩は知っているのか。──羅凍が不安に思っていると、哀萩はそれを察知したかのように話し始めた。
「近々、捷羅の奥さんになる人が来るんでしょ?」
捷羅は滅多なことでは城の外には出ない。哀萩もそれを知っている。いや、捷羅のことを理解しているのは、羅凍よりも哀萩で。
「今度こそは、幸せになってほしい。そう思っているのは、私だけではないわよね?」
振り返って羅凍を見た忘れな草色の瞳。
羅凍は、凪裟に言った言葉の数々を思い出す。どれも捷羅を擁護する言葉ではない。本来なら、誰よりも羅凍が捷羅の恋愛成就を願い、行動すること。立場もあるが、それ以上に──そうできないのは、捷羅の日頃の言動、特に哀萩への言動を知っているからであって。
返事のない羅凍に、哀萩はため息をついて背を向ける。
離れていく姿を見ながら、羅凍は渋々歩き始める。一定の距離を保ったまま、悔しさを噛み締めて。彼女の背中を見つめたまま。




