★【57】すれ違う想い(1)
鴻嫗城で伝説の話をした捷羅と羅凍が、羅暁城に帰城したその日。
「お帰りなさい」
二階に上がったふたりを出迎えたのは、白いワンピースの上に緑のマントを羽織った女性だった。マントと同色のやわらかい帽子を被っているその女性を見て、ふたりは同時に口を開く。だが、
「哀萩」
と、実際に彼女の名を呼んだのは捷羅だけで。駆け寄っていく捷羅に対し、羅凍はしっかりと口を閉じた。
「ただいま」
捷羅が微笑めば、対面する忘れな草色の瞳はつぶれていく。たった二日だというのに、何てうれしそうな表情を浮かべるのかと、羅凍の視線は釘付けになる。──それに、どういう用件で、誰に会ってきたのかを知っているはず。
喜々とする表情を見ているにも関わらず、羅凍の胸は締め付けられる。
「母上に、お話してこないと」
哀萩と二言三言、言葉を交わした捷羅は、にこりと笑う。忘れな草色の瞳はぱっちりと開き、熨斗目色の髪と金属製の耳飾りが聞き分けよく上下に軽く揺れた。
捷羅は右奥へと歩いていく。その背を見送るように熨斗目色の髪がフワリと舞う。
オフホワイトの壁が、高い天井が、すべての音を吸い込んでいるかのように静かで。哀萩の深く息を吸う呼吸が、ちいさなため息が、羅凍に響いていく。
スッと、動き出したのは右足。二歩、三歩と進めば哀萩との距離はあっという間に埋まる。
「哀萩、ちょっと付き合ってよ」
小柄な彼女に屈んでやさしく声をかければ、ちょうど耳の高さで。
哀萩にしてみれば驚いたのだろう。囁きのような声に、彼女はビクリと体を反応させた。
羅凍からすれば驚かそうとしたつもりはなく。かえって驚き、慌てる事態になったのは、羅凍の方で──哀萩が次の瞬間に振り向き、顔が急激に近くなり──急いで上半身を起こす。
驚きは隠せず表情に出てしまっていて。ゆるむ口元を抑えられず、笑うしかなかった。
哀萩は怒ったのだろうか。顔を真っ赤にして声を噛みつぶしたかと思うと、握った拳を羅凍の腹部に押し当てる。
「アンタはっ! 背後から声かけるのやめてって、何回言えばわかるのよ!」
──かわいい。
想いは満足そうな表情となって浮かぶ。抱き締めたい衝動をただただ抑え、腹部にある手首をつかむ。
「はいはい、俺が悪かった」
自然と声は弾み、踊る心は足を軽やかに動かす。──哀萩を引っ張るのは、捷羅が歩いていったのとは反対方向。
「ちょっ……と!」
ただし、その言動は哀萩からしてみれば実に一方的で。身長差のある羅凍が走れば、哀萩は引きずられないために何とか同じペースで走るしかない。
身長の差は二十センチ以上。哀萩に抵抗する術はない。オフホワイトの壁がバランス悪く上下に揺れて、視界を駆け抜けていく。
城内を羅凍が移動する場所は限られている。城内の左側半分だけ。右側半分には、滅多に自ら立ち入らない。
正面から羅暁城に入れば、両側から二階へと続く階段が伸びている。ここの階段でさえ捷羅のあとを付いていくとき以外、羅凍は右側を選ばない。
右側には捷羅の部屋があり、王の部屋があり、王妃の部屋がある。羅凍の部屋は左側。位置としては捷羅と対になるところではなく、同等とは決して言い難い、同族とも言い難いような位置だ。けれど、羅凍は安堵している。城の裏口に行きやすいから。育った棟が近いから。哀萩の所属している宮城研究施設がある側だから。
そして何より、王と王妃に遭遇する確率が皆無に等しいから。
羅凍は両親が苦手だ。いや、苦手なのは羅暁城の空気も。城の象徴であるオフホワイトの壁は無機質で、天井の青は空ではなくて、何て息苦しいことか。歩けば向けられる使用人たちの目にも、生きた心地がしない。
裏口を出て芝生を踏み締めてから、ようやく羅凍は足を止めた。
「ここまでくれば、いいか」
城内とは違い、なじみ深い芝生は何て心地のいいことか。まだ所々に雪が残り、冷たい空気も澄んでいて気持ちいい。大きく息を吸って、そうして羅凍は気づく──哀萩が息を切らしていると。
──あ。
しまった、と後悔するには遅く。無言の抵抗だと言うかのように、哀萩は羅凍の手を振り払う。
言葉より先に、羅凍は哀萩へ手を差し出す。
「どこに、行くつもり?」
「来てくれればわかるから」
彼女がいてくれれば、うれしくて。それだけで笑ってしまうのに──。
パンッ
哀萩は羅凍の手を叩く。手を繋ぐ気はないと。
「いいわ。付いていくから」
哀萩からすれば、また引きずられないように慌てて足を動かしたくないのかもしれない。表情にも口調にも不満が含まれている。
決して哀萩は喜んで付いていくわけではない。そのくらいは羅凍も理解している。けれど──羅凍は至福を噛み締めるような笑顔をこぼした。
羅凍が歩き、哀萩は付いていく。時折、羅凍は振り返って止まる。距離が離れたと気づいて。
哀萩はマイペースで歩く。黙々と。不満げな顔をしながら時折、顔を上げて。羅凍が立ち止まって見ていると、より不満を濃く表情に表して視線を逸らす。──そんな態度だとしても、付いてきているのがよほどうれしいのか。羅凍は、また幸せそうな笑みを浮かべて歩き出す。
そうして、辿り着いたのは城下町。けれど、羅凍は周囲を見渡すそぶりを見せず。まるで目的地が定まっているかのように一直線に歩いていく。大通りに出ることなく、出店が集まる場所へと。
「羅凍って、ひとりでよく来てるでしょ」
哀萩がボソリと言えば、羅凍は笑って受け流す。そして、何も聞かなかったかのようにひとつの出店に声をかける。
「ふたつ、ちょうだい」
その出店は、甘い香りが漂う店。亭主は羅凍が騒がれたくないと理解しているのか、珍しいことではないからか、ひとりの客として対応している。
哀萩が店の看板に目を移動させたと同時、
「はい」
と、羅凍が哀萩に差し出したのは、シンプルなクレープ。




