【52】受け入れる者(2)
瑠既は倭穏と一緒にいただろう。倭穏は今でも生きていたかもしれない。危険な目に遭わせずに済んだかもしれない。
もし、瑠既自身が危険な目に遭っていたとしても──たらればが増えていく。
結局のところ、鴻嫗城への未練を断ち切りたいと、自己満足をしたかったにすぎなかったのだろうとも。
鴻嫗城の血を継いでいるとこだわって、すがって、執着していたのは瑠既自身だ。その想いが招いた結果であり、戒め。そう思えば、気持ちは揺らがない。会っても、出した答えを伝えられるはず。
いくら後悔しても、倭穏は戻ってこない。
幼いときに迷ってしまったであろう分岐点。その場に立って、どうして迷ったのかを思い出す。こけた。派手に。
痛さと恐怖で混乱したと思い出せば、どんなに情けない幼少期だったかとため息しか出ない。誰かがそばにいてくれるのが当たり前で、誰かが手を差し伸べてくれるのが当然で、みんながやさしくて、甘えてばかりだった。人生で、初めてひとりで立ち上がらなくてはいけなかった場所。
「瑠既……様?」
声の方向を見れば、クロッカスの瞳と長い髪をした女性がいる。豊満な胸を隠さず、淡い色のドレスをまとって。大きな髪飾りの奥に見えるのは、鐙鷃城。
「誄姫」
大きな瞳に整った顔立ち。少女だった誄が、そのまま大きくなったような女性を前に、本人だとつい口から名が出る。
しかし、懐かしい再会をしに来たわけではない。しっかりと断らねばと、瑠既は言葉を選ぶ。
「俺に執着してもいいことはありませんよ」
わざわざ傷付ける言葉を選んで言った。けれど、誄はまっすぐな瞳で、瑠既を見つめる。
「私は貴男のために産まれてきたのだと……ずっと信じています。そう想って貴男を慕い、お待ちしておりました。どうか、おそばに置いてはくださいませんか?」
遠い過去に言っていた言葉を突き付けられ、瑠既は誄から視線を逸らす。視界を埋めるのは、幼いころに木々に囲まれ迷子になったときに見上げて見えた色と同じ、青い空。
心の奥底に沈めた、本音が浮き上がってくる。
──俺自身が何より『自分は鴻嫗城の血を継いでいる』としがみ付きたがっていた。
こだわって、すがって、執着していていたかったのは、誄への想いが消せなくて。だからこそ、髪を切ってからわざとらしく口調を崩した。服装にも無頓着だった。鴻嫗城に倭穏と来てからは、過剰に貴族らしい服装と距離を置きたがった。
何もかも、相応しくないと自分自身を否定したかったからに他ならない。
「沙稀様の吉報を聞きました。私を利用して、いいのですよ?」
誄が悪魔の囁きのような言葉を言う。
「このままでは沙稀様は継承権を放棄され、恭良様が実質的にお持ちになるのです。瑠既様は、それでよろしいのですか?」
視線を合わせた瑠既に、誄は懇願するように訴える。
「例えば、私と瑠既様の婚約がこのまま進んだとして。沙稀様と恭良様の婚約は、同時に発表されるでしょう。そうなれば……いえ、そのときであれば。沙稀様は瑠既様と双子だと公表できると思うのです」
誄は、瑠既が戻ってきた理由を知らないはずだ。誰にも言っていない。
それなのに、誄は──瑠既を揺さぶるように更に言う。
「私は……瑠既様がいらっしゃらない間、沙稀様が私を義姉として支えてくれました。尊重してくださいました。家族として接してくださっていました。だから、私は嫌です! 沙稀様を、元の立場に……それを叶えられるのは、瑠既様しか、いないんです」
鴻嫗城に来たときに、どうにかしたいと考えていた手立て。それを目の前にぶら下げられて、尚且つ──。
「お願いです。私を、利用してください」
駄目押しの一言。
誄の発言は、悪魔の言葉ではない。あえて言うなら、自己犠牲。
長年待ったのだから責任を取れとか、好きだと感情論で押してくるとか、そうしてくれれば悪態とひどい言葉を返せば断り切れると踏んでいた。つくづく、考えが甘いとしか瑠既は自省するしかない。
瑠既は痛感する。屈辱的な日々を過ごしていたとき、この人への想いだけを支えに生きてきたと。待っている人がいるから帰りたいと願ったと。
その資格がもうないと無理に呑み込んで過ごし、気持ちが空っぽになって倭穏の想いで埋めてきた。
未練を断ち切りたいと願ったのは、生家の鴻嫗城に対してではなく。無意識ですり替えていた、誄への蓄積した想い。──しかし、それをどう受け止めていけというのか。けれど、今、誄の申し出を断れば、鴻嫗城に来る前に願ったことを叶える術はなくなる。
それは、倭穏の死を無意味なものにするのと同義のようで。──瑠既は込み上げてくる感情を受け止めるように瞳を閉じる。
空を仰ぎ、おもむろに口を開く。
「わりました。貴女と結婚いたします」
今の今まで見ないようにしてきた想いを受け止めるにも、突然切られた関係に気持ちの整理をつけるにも、一度に割り切れるほど器用ではない。
瑠既が感じていた感情は、悪魔に魂を捧げた者の感情に似たもので。
婚約がこれから進むにしても、よく晴れた青い空の下に咲く笑顔はなかった。




