【52】受け入れる者(1)
沙稀を招き入れて、瑠既はベッドに座る。ソファはふたりが座れる程度。食事をするわけでもあるまいし、瑠既よりも沙稀が座りにくいだろうという配慮だ。
それを見通してか、否か。沙稀は遠慮なくソファに腰を下ろし、瑠既へと体を向けるように右へ捻る。
会話をするにしては距離が離れているが、心の距離の表れと考えれば無難なのかもしれない。
「あのさ、その……恭姫とのこと。……ありがとう」
何を言われるかと思っていた瑠既にとっては、意外な一言だ。つついて怒らせての繰り返しだった。それをこうも素直に感謝されたら、言葉が出てこない。
「恭姫と結ばれていいと、考えたことがなかった。だから、戸惑ったままだし、消化できないことだらけだし、混乱したままの状態だと言ってもいい。それでも……。こういう風になれたのはお前のお陰だろう。恭姫を迷わせたのは俺だったが、後押しして……」
「ああ……ああ、あれか」
瑠既は丁字路で婚約の承認者になったときのことを思い出して笑う。言いにくそうな沙稀の言葉を遮って。
「ありがとう」
遮ったのに、沙稀は律義に礼を繰り返す。
あれだけ頑なだった沙稀の変化を感じ、
「よかった」
と、瑠既は自然と笑う。
一方の沙稀は瑠既の笑顔を見られて安心したのか、
「それと……」
と、言葉を続けようとした。けれど、瑠既がふと顔を上げ、視線が合うと言葉が止まり。視線を逸らす。
言おうとして言いにくいと止まった言葉──もしかして、と瑠既は神妙にならないように、あえて普通を装い軽快な口調で話す。
「なぁ、沙稀って誄姫の連絡先、知ってる?」
「ああ……ん? え?」
目を丸くして驚く沙稀。言葉が続かなくとも、言わんとしたことだと態度が示しているような反応だ。
──ああ、やっぱ誄姫のことを言いに来たのか。
瑠既はそう思っても、嫌な気はしない。何より、好都合。
「俺さ、ガキのころ誄姫に会いには行ったけど、自分から連絡したことはなかったんだよな。何か連絡があれば大臣が連絡とってくれたり、誄姫から連絡きたりしたな~って。今更、思って」
大臣に頼めば、着実に婚姻へと向かうセッティングをされるだろう。そう予感している瑠既にとっては、
「こっそりふたりだけで会えるように……段取りしてくんねぇ?」
と、沙稀に頼めるのは好都合。──くらいだと目論んだのに。
沙稀は一瞬、呼吸が止まったようで。
ゆっくり息を吸ったかと思えば、すぐさま立ち上がり、瑠既への返事をロクにせず電話へと一目散に向かう。
受話器を上げ、瑠既が驚くほどの早さで番号をいくつか入れた。
「もしもし。度々ごめん。俺だけど」
瑠既の耳は一気に大きくなる。
──『度々?』、『俺だけど?』
よほど頻繁に連絡しているとうかがる口ぶり。それに耳を大きくした己に驚き、何を妬いているのかと自問自答する。
「瑠既が誄姫と会いたいと言っている。都合をつけてもらえないだろうか」
沙稀と誄はどんな間柄なんだろうかと妙な思いを吹き飛ばすような言葉に、大きな耳は静まっていく。
──何を妬いているんだ、俺は。
荒ぶった感情に嫌気が差す。これから婚約を解消する話をつけに行くのに、会う前から気持ちを揺らしてどうするのかと。
──何度考えても、変わらない。誄姫との未来は途切れている。
髪を切った、もう十年以上前に。今更、昔に見ていた未来は見られない。ふと首元に伸びた右手は、襟足を握っている。指からはみ出す長さは、『短髪』と表現するには少々長い。
──これが誄姫への未練なら、この機会にいっそ切っちまおうか。
母と祖母の髪質を受け継いだのか、一定以上長く伸びればゆるいウェーブを描く髪の毛。無関心、無頓着になったまま伸びた前髪。その前髪を、何となくサイドや後ろに流しているが、寝起きには嫌でも長くなったと訴えてくる。
綺にいるときに切ればよかったものの、髪の毛に無関心でいたくて気にしないでいた。いや、肩につく前には衝動的に切っていた。それこそ、いつまで経っても意識していたということだ。
受話器を置く音──と、ほぼ同時。
「一時間後、でいいそうだ」
沙稀の声。瑠既が顔を上げると沙稀は扉の前にいる。
「早く」
──ん? 一時間後、でいいんじゃないのか?
言葉にしないものの、急かされるままに客間を出る。
こうして沙稀は、瑠既に釘を刺そうと思っていたことをすっかり言いそびれ。瑠既は黙々と歩く沙稀に付いていき、自室へと入る。
瑠既の自室では、沙稀による衣装合わせが開始された。
「いいよ、適当で」
「駄目だ! 誄姫に会うんだぞ?」
立ち尽くすだけの瑠既と、慌ただしく、世話しなく動き回る沙稀。クローゼットを見渡し何着かを手に取り、瑠既の首元に合わせて唸る。目つきは真剣そのものだ。
「きちんとした格好でお前を送り出すのが俺の責務だ」
服が決まったのか、着ろと言わんばかりに瑠既に渡す。──かと思えば、今度はまだ他にも何かを探しているようで。瑠既は半笑いを浮かべる。
「責務……ねぇ……」
そこまで言われたら、手元にある服に袖を通さないわけにはいかない。
やわらかい生地の上着を脱いでシャツに腕を通す。ボタンを締めたらクロッカスで柄をあしらっているベストを着る。下は渋めの濃い紫色、小紫色。上着の襟は同色。全体は黒に近いグレーだ。上着を羽織れば前はショート丈だが燕尾。
いかにも貴族という出で立ちに瑠既が落ち着かないでいると、沙稀が寄ってきて襟を立てストールを巻いていく。ひだを作り大きなブローチで止め、形を整える。
胸元に広がるクロッカスで染まったストールを瑠既が眺めていると、沙稀は視界から消えた。
次の瞬間、触れられたうなじ。反射的に瑠既の手は、それを払う。
「もう、充分だろ」
振り返れば沙稀は片手に細い髪飾りを持っていて。どうにかこうにか、まとめているように見せようとしているのは、一目瞭然。
瑠既の眉間にはしわが寄っている。感情が高ぶっているのか、瞳にはわずかに湧く水分も。言葉以上の拒否だ。
それにも関わらず、
「いや、不十分だ」
と沙稀は言ったが、手を下げる。瑠既から離れ、ため息をつくと、
「もう時間だな」
と、時計を見上げた。
沙稀は不満だっただろう。けれど、時間を理由にしてそれ以上は何かをしようとしなかった。一緒に瑠既の部屋を出て、紫紺の絨毯から出ても何も言わず。ただ瑠既の姿が見えなくなるまで、その境界線の手前で見送っていた。
王が亡くなった日、同じ用事を済ませるために同じ道を通ったと瑠既は思い出す。
──あの日に、もし……。
もし、行かなかったら。




