【51】拒む者
人知れず瑠既はある客間に来ていた。この客間は、倭穏が通された客間。叔が倭穏を連れて帰ってから、フラリと来てしまって。──それから、何度か来てしまう場所。長い歳月が経ち戻ってきたときは、素直に広い方だと感じていた。
けれど、帰城してから数日経ちよく見渡せば。鴻嫗城では決して広い客間ではない。ベッドがある他には、入口近くに食事ができるくらいのテーブルと、ふたりが座れるソファがある程度の客間だ。室内の上部に施されている彫刻も、何て簡素なものか。
自室にいれば落ち着かなくなり。いる場所を求めて、この客間に辿り着く。ただ、この客間に足を踏み入れれば、それこそ綺に帰ろうかと呆然と思ってしまって──どうしようもなくなる。
「もう、二度と家には来ないでくれ」
この叔の言葉が繰り返されて。何度も瑠既を突き刺す。
いっそ、どこでもいいと客間から、城から飛び出したくもなる。けれど、他に行く当てもなければ、過分に手持ちを持ってきたわけでもない。
特に執着するような私物があったわけでもないが、本当に何もない。残ったのは、かつて倭穏からもらった愛用の香水くらい。
瑠既は呆然と立ち尽くしていたが、唐突にベッドへと向かい潜り込む。──ここには、まだ倭穏の香りが残っていそうで。
倭穏は柑橘系の香水を付けていた。瑠既がもらったのも柑橘系の香水だが、香りは違う。香水には関心も興味もあったわけではない。だから、知識もない。受け取ったとき、香水を瑠既が身に吹きかけると、倭穏は満足そうに笑った。そうして、抱き付いてきて。『混ざったこの香りが一番好き』と腕の中で言っていた。
ベッドの中でうずくまっても、倭穏の香りがすることも、香りが変わることもない。瑠既が付けている手の中の小瓶と同じ香りがほんわりとするだけ。
たった数日だというのに、倭穏の香りが思い出せなくなっている。このまま忘れてしまうのではないかと不安が襲う。声も、顔も、表情も、あの体温も。
急激に人肌が恋しくなって、布団を抱き締める。ふんわりとやさしいやわらかさだが、到底、人のそれとは違う。
倭穏と最後に肌を重ねたのは、いつだったか。綺にいたときは、あまりにも当たり前のことになっていて。意識をしたこともなかった。
綺を出る前夜はしていない。翌朝は、寝起きに唇をそっと重ねたくらい。船に乗っていたときは、そんな気分ではなくて。戻ってきてからは、少しは生家らしい振舞いをしようと心がけて。何度かしようとしたが、全部未遂で終わった。頭のどこかに、帰ってからすればいいという考えがあったから。
「あ~……」
この客間で押し倒したときに、ふざけないで抱いておけばよかった。そうすれば、最後の思い出にもなったのに。そんな風に心がかき乱れ、無性に人肌が恋しくなり、倭穏を求める気持ちが膨らんでいく。布団を抱く腕が強くなり──ふと、ゆるむ。
──いつからこんなに。
欲情するようになったのか、と。
倭穏と付き合う前は、まったく湧かなかった感情。嫌悪していたと言っていい。だからこそ、瑠既には──今の感覚がまともなのかどうかが、わからない。
叔に拾われる前ことを思い出せば、嫌気しかない行為であって。それを求めるようになっていると感じれば、かつて汚らわしいと見た男たちと同類になったようにも感じて。
「誄姫はずっと貴男をお待ちしていたのですよ。『自分のために産まれてきた人だ』と言っていたのは貴男です」
大臣の言葉が過る。
鴻嫗城で生まれ、育ち。鴻嫗城で教育を受けていたころは、汚らわしいとは微塵にも思わなかった。
懐迂のように神聖で清らかなものだと、一種の憧れさえ抱いていた。大好きで大好きでたまらない人に、愛を囁き捧げる、愛の証。何て甘美なものだろうと幼いながらにドキドキしたものだ。
その思いをズタズタに壊されたとき、瑠既の心は砕けた。叔と倭穏が受け入れてくれて、心はいつの間にか回復していた。心は回復したが、身が清く再生したかと問えば否だ。倭穏と一緒にいれば同じ身だと言え、忘れていられるが、誄は違う。穢れを知らない、無垢な存在。
生家との別れを自ら選び、貴族を捨てて生きてきた。かえってそうして生きてきた方が長い。鴻嫗城にわざわざ戻ってきたのは、綺に気兼ねなくいられるようになりたいと思っていたから。踏ん切りがつかずにいたが、決意できたのは、沙稀に再会したからだ。沙稀にどうにか継承権を戻したいと、どうにかしたいと思ったからだ。まさか、こんなことになるとは想像もせずに。
綺に気兼ねなくいたいと思っていたのは──。
叔を安心させたいと思ったと言えば、いいだろうか。悪いだろうか。恩を返せると思ったと言えば、悪いとなじられるだろうか。
二月になって倭穏から『甘い物はあんまり好きじゃないでしょ。でも、私の気持ちだから……受け取りなさいよ?』とビターチョコを強引に渡されて。
──ああ、俺ももう、二十五か。
なんて漠然と思ったときに、ふと浮かんだのが『結婚』という二文字で。年齢というか、長年付き合った責任というか、けじめというか。倭穏はまだ十九歳だから、重いと笑うかなとか、思考だけがつらつらと湧いてきて。ただ、根底にあるのは、倭穏にこのまま笑っていてほしかったからで。
──何回考えても、やっぱ変わんねぇな。
誄に未だ未練があるのは、否定しない。けれど、現在の状況になったからといって。一度は倭穏との未来を想像しておいて、数日だけで──いや、何年経っても、誄との未来を想像するのは難しい。生家に戻れないと痛感して髪を切ったときに、誄との未来は途切れている。
コンコンコン
ノック音が聞こえ、瑠既は驚く。──自室ではなく、ここで過ごしているといつ、誰に見られてしまったのか。
警戒しながら少し扉を開けると、意外な人物がいて。瑠既はすぐさま扉を開けた。
「沙稀……」
「すまないが、入れてくれないか。ここで立ち話をしていて都合が悪いのは、俺だけではないだろうから」
どうしてここにいるのがバレてしまったのか。ばつが悪そうにしていると、
「ここにいてくれたら助かると思って、来てみてよかった」
と沙稀は言う。よく考えてみれば、確かに。瑠既の自室は特別な区域にある。訪ねにくいということか。




