【48】過去生との決別(1)
職場の研究室で忒畝は安堵のため息をもらしそうになった。ようやく忒畝の求めていたものに辿り着けそうだと。
──あと少しで、すべての確認作業が終わる。
気が抜けたのか。忒畝は軽い眩暈を覚えた。
「琉菜磬様」
どこからか聞こえたのは、近くにいる黎馨の声。
静かな夜だ。
美しい声が教会の中で響いている。──窓から差す月の明かりが黎馨をより美しく、神秘的に輝かせている。
何かを言いたそうにしながら言葉にしない黎馨を見て、胸が痛む。
──また、あの話か。
と。おもむろに口を開けば、言葉は想いと裏腹なものを紡ぐ。
「もう、いいよ。行っておいで。君の……気の済むようにしておいで」
違う。本当は嫌だ。離したくない。一時も離れたくはない。
強い想いは、何も言わない黎馨を抱き寄せていて。
「でも……必ず帰ってきてほしい。僕のもとへ」
次第に強くなっていく腕の力。
込み上げてくる想いが涙に姿を変えようとしている。けれど、もう泣いてばかりもいたくない。泣き虫なのは、少年時代だけで充分だ。
黎馨とは、これで最後になるかもしれない。一度離れてしまえば、もう二度と会えないかもしれない。
──けれど、離さなくては。
ふと、腕の力をゆるめ、左手で妻の頬に手を添える。大きな杏色の瞳が、ただただ愛おしい。
──これ以上見つめてしまったら、もう離せなくなる。
ゆっくり手を離す。黎馨から離れなくては、彼女も行きにくいだろう。
さようならとは言わないと決めて、背を向け黎馨と離れていく。
忒畝は体を支えようと、右手を長机の上に置く。すると、今度は大きくグルリと視界は回って。
見えるのは色素が抜けた髪。視界が捉えているのは、夜空に大きく輝く満月。
ひとりの男を思い出す。──まだ魔物との戦いの最中に、救いを求めてやって来たあの男。
──救いたかった、守りたかった。
──でも、できなかった。
──苦しみにもがいていた。
あの姿が、なぜか琉菜磬には忘れられなかった。
『魂は皆……同じです。孤独、劣等感、自責の念……そして友情や恋愛、家族……誰もが愛情を求めます。誰もが同じです。貴男が特別に悪ということもないのです。それを、神はご存じです。神の前では誰もが無になり、平等。罪を忘れずに祈りを捧げなさい。神は、きっと願いを叶えてくださいます。いつも、あなたを見守ってくださっています』
苦しみにもがいていた男の姿が、現状と重なる。
当時言った言葉が今になって、まるで自らに言い聞かせているようも感じられる。
鏡を見れば、日ごとに色素はどんどん失われていっていた。アクアの瞳が、透明に近づくように薄くなっている。それに比例するように、視力も奪われているのか。徐々に視界はぼやけて。
手足の指先から走る痛み。
ぼやける視界で右手を見れば、ひどい色をしている。──壊死が、始まっている。
──死は怖くはない。死は、皆に平等にいつか訪れることだ。時期が、違うだけ。
ズキリと激痛が走る。
この痛みは、初めてではない。幼いころ、何度か襲われた痛みだ。ふしぎなことに──黎馨と結ばれてからは感じなくなっていただけ。黎馨がいなくなってから、すぐまた始まって、急加速しているだけ。
──いつまで、僕の体は持つのか。
願いはひとつ。愛する妻に、ただただ会いたい。
そうして気づく。黎馨がいてくれたからこそ、保っていた体だったのだと。
崩れていくのは、そう遅くないとも。
ポタリと、指が腐り落ちる。
──これ以上、死に向かう姿を皆に見せるわけにはいかない。
ゆっくりと屈み、落ちた指を拾う。ボタボタと床に残るは、黒い液体。
琉菜磬は皆に別れを告げ、惜しまれながらも教会の扉を開ける。──そこは、産まれてから運ばれてきたときのように、銀世界で。
「だ、大丈夫ですか?」
忒畝を心配する黎馨の声。
黎馨が心配するのも当然だ。忒畝は机に両手をついてガタガタと震えていたのだから。
忒畝に強い想いが波になって襲ってくる。手を伸ばさずにはいられない反射のようなもの。彼女と合う視線に吸い込まれるように唇を重ねる。
黎馨を求める感情がより強くなる。もう、離したくないと。
一方で、頭の片隅には冷静な忒畝がいる。黎馨は『琉菜磬』を感じているから無抵抗なのだと。心を支配するような、この強い衝動の根源である想いも、自身の感情ではないと理解もしている。
それなのに──互いに求めることをやめない。
快楽に引きずり込まれる。
溺れるように堕ちていく。
虜になるような感覚に陥る。
どこかでこれは自らの意思かのようだと錯覚している。ゆっくりと黎馨が床に座わる。その肌を露わにしていく。やわらかく、あたたかい。どこをどう触れたか、舐めているのか。判断が付かないほど魅惑に誘われていく。
体の芯を貫く痛みを感じないことを疑問に思わずに、頭の片隅にいたはずの冷静な忒畝を見失って、ただ体が汗ばんでいくのを感じ、肌を合わせていく。
黎馨の丸みを帯びた、その火照った体が愛おしくてたまらない。手を重ねて、強く握り締める。
『黎馨』
見つめて名を呼び、キスをしてまさにひとつになろうとした──いや、しようとしていた。
なのに、体は凍りついていく。あまりにも愕然として。
──僕は、何てことをしているのか。
自己嫌悪なんてぬるいものではない。血の気が引くとは、まさにこのこと。
自我を取り戻した忒畝は急いで肌を離し、黎馨に背を向ける。
どこから意識がなかったのかが、わからない。──『黎馨』と名を呼ぼうとしたときの意識は、『忒畝』ではなかった。
忒畝に背を向けられた黎馨は、その背を見つめている。忒畝の呼吸は荒く、背中からは落胆が滲み出ている。
けれど、黎馨は責めようとも思わない。そっと、手を伸ばし──慰めるように背後から忒畝を抱き締める。
背中に胸のやわらかい感覚が忒畝に伝わってくる。体中で感じるのは、黎馨の体温。その気持ちよさに体がかすかに震えた。
鼓動が高鳴っている。
──これは、確かに自分の感覚だ。
自我を確認し、『自分だ』と自らに言い聞かせる。──先ほどまでの行為は、遠い昔の、過去生であった琉菜磬が想い焦がれていたこと。
『黎馨とひとつに結ばれること』──生殖機能を持たなかった琉菜磬にとっては、憧れていたことだ。いくら切に願い、描いてみても叶わないと痛感するだけだったこと。
だが、今は違う。
想いを遂げようとしていた。──遠い昔の存在の琉菜磬が、忒畝の行動を酷く嘆いているように思えてくる。
そうして、ある推測が頭を過り、胸が締め付けられた。
──残酷だ。
忒畝はその推測を否定したかった。あまりにも、残酷に思えて。
その推測は、黎馨となら、忒畝が一度捨てた夢を叶えることができるのだろうということ。受精したあと、胎児は彼女の体内で、彼女の治癒能力を受けて育ち、彼女の血を引いて産まれてくる。『生きる術を持つ子』として彼女なら産むことができるだろうということ。そして、黎馨は恐らく拒まない。だからこそ、残酷だ。──そう思っても、昔に抱いた夢に手を伸ばしたくなる。伸ばせば、叶うから。




