83 私は嫌い。気持ち悪い。変な名前をつけられた。殺したい
俺がこの世界に呼ばれたのか、この世界に送られたのかはいまだにわからないが、元の世界で発明された万能翻訳は、言葉を持たないゴブリンとの会話さえ可能とした。
声を失ったピノの言葉を理解するぐらい、簡単なのかもしれない。
『どうして? どうしてカロンは、私の言っていることがわかるの?』
涙で顔を濡らし、絨毯を汚しながら、ピノは言った。俺以外の人間がこの場にいたら、ただ口をパクパク動かしているだけだと思ったかもしれない。だが、俺にはしっかりとした言葉として伝わっている。
「俺にもわからない。でも、俺にはピノの声が聞こえる。声が出なくたって、関係ないんだ」
『……すごい。さすが……私のカロン』
ピノは『私の』と言った時に力を込めた。俺はピノのペットであり、所有物だった。
「ご主人様に喜んでもらえて……」
ピノが俺の口を塞ぐ。確かに、王子に俺がいることがばれるのはまずい。だが、ピノの行動の意味は違った。ぶんぶんと首を振った後、ピノは言った。
『私……カロンのこと、好き』
ピノは言葉を選ばなかった。俺は顔が一気に紅潮した。綺麗な女の子に、真正面からこんなことを言われたのは、元の世界でも記憶にない。
「お、お、俺……」
声が裏返りそうになり、俺はあわてて口を塞いだ。さすがに、ひっくり返った声をベッドの下で出していては、変に思われるだろう。
「フローレア、いつまでそうしているんだい?」
『あんたが帰るまでだよ』
ピノが、海底で楽しそうにしていた頃には考えられない悪態をつくと、王子の足に向かって舌を出した。当然王子には聞こえていない。
「ピノ、もう行ったほうがいい。ここに隠れているのは、ピノに会いにきたんだ。王子に見つかると、また牢に戻される。今度は、すぐに殺されてしまうかもしれない。ずっとここに隠れているよ。王子が帰ったら、また会える。ほんの少しの我慢だよ」
『……うん』
ピノが少し考えてから、小さく首を動かした。自分の指先をひと舐めして、俺の方に突き出してくる。俺は、ピノの白い指先を、口に含んだ。
ピノはその指を引き戻し、嬉しそうに笑った。
ピノが戻っていく。俺は、自分がピノを引き止めたいと思っていることを自覚していた。ピノに何を言おうが、俺も、ずっとピノと一緒にいたいのだ。
「ようやく出てきたわね、この泥棒猫。どうせ、男でも隠しているのでしょうに」
「チェルキー、言い過ぎだ。フローレアがそんなこと、するはずがないじゃないか。フローレアはこの国に来たばかりだし、口も利けないんだ。それに……ベッドの下に誰もいるはずがない。潜っていた君が、一番知っているはずだろう」
「ええ。そうですわね。でも、このフローレア、口を利かなくても、執事見習いを誑かしたのでしょう? 見事な手管だと、王宮中の話題になっていましてよ」
「フローレアがそんなことをするはずがない。あれは、執事見習いが悪いのだ。余の花嫁に横恋慕などしおって」
海岸で倒れていたピノを助けたのは俺だ。王子は死体だと思って手も出さなかった。ピノは俺を追って来たのだ。どうして王子が怒るのか、俺にはさっぱりわからない。
「恋は盲目ともいいますものね。でも、すぐに冷めますわよ。ウィル、もうお帰りなさいな。私は、少しこの泥棒猫に話がありますのよ」
「余は……もう決めたのだ。余の妻は、王妃になるのだ。汚れも邪心もない。フローレア以上の女など、どこにもいるはずがない」
「ただ口が利けないから、そんな幻想を抱いているだけですわよ。まあ……見ていらっしゃい。近いうちに、目を覚まさせてご覧にいれますわよ」
「フローレア、余の言っていることはわかっているのであろう。チェルキーの言うことに耳を貸すのではない。余は、いつでもフローレアの味方だ」
「はい、はい。お帰りはあちらですわ」
「余は、余は諦めないぞ。フローレア……きっと我が物にしてみせる」
王子とチェルキーと呼ばれた女の足が戸口に近づく。
女は、俺の存在をばらさなかった。
恩を感じるべきだろうか。
王子を追い出し、チェルキーだけがベッドの前に戻ってきた。ピノもいる。ピノはチェルキーのことが苦手なようだ。できるだけ遠ざかろうとしているのが、足の動きだけでもわかる。
「聞いているのでしょう。出て来なさいな」
俺に向かって言ってるのだ。俺はもぞもぞと動き、ベッドの下から顔を突き出した。
「どうして、庇ってくれたんです?」
「庇った? 私が? とんだお人好しね。この娘が私にとって邪魔だから、追い出すのに利用しようとしているだけよ。さあ……私はもう行くわ。あとは、二人で決定的な瞬間を作ってくださいな。私が大勢引きつれて、言い逃れできないところをひっ捕らえてあげますから」
「……俺とピノは、そんな関係じゃない」
「ピノ? この娘の名前ね? そうよねぇ……フローレアなんて、似合わないと思っていたもの。ウィルがつけたのね。センスのないこと。ピノのほうがお似合いだわ」
「ええ。いい名前です」
『そうでしょ』
俺が褒めると、ピノはニコニコと笑った。俺にしか聞こえていない。
「褒めたのではないわよ。まあ……いいわ。これから、するの? 人を呼んでいい?」
「しませんよ」
「するときは言ってね。私も準備をするから」
「言うはずがないでしょう」
「自信がないのね? あれが小さいの?」
「失礼な人だな。ピノが困るようなことはしません」
「……面倒ね。でもいいわ。どうせ、この娘には四六時中監視をつける予定だったのだから。ただ、余計な手間が省けるかもと思っただけよ」
勝手なことを言いながら、チェルキーは出て行った。
部屋に残されたのは、俺とピノの二人だけだ。
『カロン、二人になれたね』
ピノが嬉しそうに俺の手を取った。ピノの声は出ていない。だが、俺には聞こえる。声が出ていないことを気にせずに話せば、俺の耳には翻訳機能が通訳して流してくれる。
「どうしたんだ? あの立派尾びれはどうした? どうして、そんなに頼りない足なんか生やしているんだ?」
『……カロンの力になりたくて……』
「もとのままでも、ピノは地上にこられただろう? 岩の中を泳げるピノが、地上にこられないはずがない」
『……うん。でも……嫌だった。カロン、魔将軍を倒すために……誰かと、するんでしょ?』
何を、とは聞かない。わかっている。魔女グリフィルが教えたのか。
「ああ。そうしないと、せっかく頭から追い出したホライ・ゾンの血が、また体を登って頭に取り付こうとするらしい。誰か……新しい命を育める相手の中に注ぎ込むしかないらしい。だから……そういう店が、人間の街にはあるんだ。そこに行こうと……」
『尾びれのままじゃ……カロンを受けいけられない……』
ピノは、人魚姫にあるまじきことを口にした。あまりに具体的に、自分の足を見た。手を突っ込んだ。俺は、見ていられずピノの手を取った。
「……わかった。ありがとう」
人魚であることを捨ててまで、俺を追ってきた。俺とある行為をするために。その結果、俺がホライ・ゾンを倒せなければ、命を失うことも承知で。
俺は、ピノの気持ちに応えないという選択肢が見えなかった。王子に嫁いで、人間としての幸せを追求してもらいたいとは、言えなかった。
だが、念のために尋ねた。
「……あの……ウィル王子のことはどう思う? ピノに、フローレアって名前をつけたんだろう? ピノのことが好きみたいだ」
『私は嫌い。気持ち悪い。変な名前をつけられた。殺したい』
大変な嫌いようだ。俺は納得して、ピノを抱きしめた。遠慮はしなくていいらしい。
俺の腕に抱かれ、ピノは力を抜いた。俺はピノの頭を抱き、その先に、扉の隙間から覗くチェルキーを発見した。
「……でも、今日はやめておこう」
俺の体にすがりつくピノを引き剥がする。
『どうして?』
「後、6日でホライ・ゾンの海賊船がこの国を襲うんだろう。それは、確かなのかい?」
『うん。おばさまが言っていたから』
「なら……ピノの中にホライ・ゾンの血を6日も入れておくことになるだろう。 俺が倒せなければピノが死んでしまうほど危険なものなんだから、ぎりぎりまで待とう。できれば、ホライ・ゾンと戦う直前に……しよう」
『する』という単語が言いにくい。ピノも察してくれた。真っ赤になって顔を背けた。
『や、や、約束ね。6日後……待っているから』
「おっ、おう」
互いにぎこちない。だが、俺は嬉しかった。
ピノが表情を変える。いつもの、楽しそうなピノが戻ってきた。
『じゃあ、それまで、何して遊ぶ?』
ピノは相変わらずだ。変わらないピノを羨ましく思う。
「かくれんぼにしよう」
『えっ……私、それ、苦手……』
「そうだったかい? 得意だと思っていたよ」
『もう……壁の中に、入れない』
「知っている。だから……鬼は俺でもピノでもない」
ピノが首を傾げた。海底の王国では、ずっと二人で遊んでいた。どちらかが隠れれば、どちらかが鬼なのだ。
『鬼は誰がやるの?』
「ウィル王子さ。隠れるのは俺とピノ……二人で、王子に見つからないようにするんだ。隠れたまま、ホライ・ゾンを倒す準備をする。どうするか、まだ全然考えていないし、難しいと思う……でも……」
『きっと楽しい』
ピノは笑いながら言った。その笑い声が、海底で聞いたのと同じ綺麗な声が、地上では俺以外の誰にも聞こえないことが残念だ。
いつの間にか、扉の外からのぞいていたチェルキーの影は消えた。今日はしないと聞いて、諦めたのだろうか。
とにかく、この日から俺とピノは共闘することを決めた。王子の目を逃れ、この国に襲いかかるホライ・ゾンを倒すのだ。その前に、俺にはちょっとしたご褒美が待っている。




