3 ログアウトボタンがどこにもない
ログアウトボタンがどこにもないことに気づき、俺はあらゆる方法を試した。
ただ指先を添えるだけで反応していた、空中に現れるコマンドボタンをスライドしてみるとか、強く押し込むとか、全てのページをめくるとか、操作上で考えられることの全てである。
間違ってログアウトしないように、あまり触らない場所にあるのかもしれない。そう思い、慎重に、丁寧に、ログアウト方法を探した。
どうやら、どこにもないらしい。
ゲーム機を外せばいいのではないだろうか。
俺はゲーム機を装着した部位、頭と手の甲から、異物を外す動作を繰り返してみたが、何の手応えもない。
手が滑るだけだ。
少し、冷静になって考えて見る。
この世界は綺麗だ。
だが、あまりにも危ない。
ゲームでなれば、簡単に死ぬかもしれない。
ゲームであれば、死んでも生き返るだろう。
このゲームは、あまりにもリアルだ。
ゲーム内とはいえ、死んだら、精神が死んだものとして受け入れ、蘇生できないのではないかと思われるほど、リアルだ。
しかも、ここから出ることができない。
さては、これ、ゲームではないな。
俺はようやく、その可能性を疑いだした。
たとえゲームであったとしても、出られないのなら同じことだ。
この中で生きていくしかないのなら、生きる方法を探さなければならない。
死んでログアウト、ができるならいい。危険を冒して試してみたいとは思わない。
自殺して、HP1の状態で強制蘇生させられるとかの方が最悪だ。俺は死ぬ自由もないということになるのだから。
俺がいたのは、滝壺に落ちて這い上がった川原沿いだ。
俺を襲ったアクアワームという気持ち悪いモンスターは追いかけてこない。水の中から上がれないか、滝つぼの底にいた蟹に食われたのだろう。
あれだけ奮闘をしながら、経験値的には何も得るものがないのは寂しかったが、ゲームとはそういうものだ。
そのうち、6つの目のあるオオカミの群れとアクアワームには思い知らせてやろう。レベルさえあがれば、俺の職業は勇者なのだ。きっと簡単に倒せるようになる。
なるのだろうか。ゲーム的にレベルが上がって、本当に強くなるのだろうか。
俺は、この場所がゲームではなく、本物の異世界ではないかと思っていた。異世界であれば、ゲームのシステム的にレベルアップを果たしたところで、本当に強くなるとは限らない。
そもそも、チュートリアルもキャラクター設定もない。俺は、どんな顔をしているのだろう。
川は近いが、アクアワームに襲われた直後で近づきたくはなかった。だが、自分の顔が別のものにすり替わっているのではないかということになれば、見てみたい衝動は止められなかった。
川の中で、支流が程よく水たまりになっているところを見つけ、周囲にモンスターがいないことを確認しながら、おっかなびっくり、水面を覗き込んだ。
水面に映った俺の顔は、知らない少年のものだった。
うっかり骸骨や魔法少女などになっていなかっただけ幸いだが、知らない顔だ。
やせ細り、頬がげっそりとこけているが、目鼻立ちが整った、可愛らしい顔だった。本来の俺より、間違いなく男前になるだろう。
少年であり、幼さはあったが、年齢的には十代の中頃だろうか。大人になった時の顔が、おおむね想像できる程度の年齢にはなっている。
アバターとしても悪くない。痩せすぎなのは気がかりだが、これからいいものをたくさん食べられるかもしれない。まだ、始めたばかりだ。太ることも楽しみだと思えば、悪くない。
そこまで考え、俺は周囲を見回した。
目に見える限りの、美しい森だ。空は青く、空に挑むかのように青々とした山々がそそり立っている。
この世界に、他に人間はいるのだろうか。
アバターとして外見だけ与えられて、異世界に放り出されたという可能性もある。本来なら人間が、親も親戚もなく存在するということはありえないが、この場合ならあるのかもしれない。
だが、もし親がいた場合、ここが異世界だった場合、他の問題が生じる。
俺が異世界に来て、この人物の体に入ったということは、本来のこの体の持ち主は、どこに行ったのだろう。
考え出した矢先に、俺は結論に至った。
このゲーム、だと思っていた世界に俺が来のは、どんな状況か。
俺はオオカミに喉を食いつかれ、血を流した状態でこの世界に来た。
あのオオカミは、現在俺のアイテムボックスで焦げた肉となっている。
あの時の、俺HPは3しかなかった。瀕死だったのだ。
たぶん、死んだのだ。
この体の持ち主が死んだところに、俺が入り込んで、息を吹き返し、再び殺される前に治癒が間に合った。そう考えるしかない。
ひょっとして、俺を探している誰かがいるかもしれない。
だが、俺には全く土地勘がない。山の様子を見る限り、無駄に動き回れば遭難して、せっかく助かった命が突然終わることも考えられる。
まずは、レベルアップだ。実際に強くなれるかどうかには不安はあるが、生きるためにはやるしかない。十分に命を守れるだけのレベルに到達するうちには、地形も覚えるだろう。人里を探すのは、その後でいい。
そこまで考えてから、俺は川原に体を投げ出した。
この世界の1日が何時間で、夜にどれだけ冷えるのかもわからない。
だが、MPがゼロの状態で頑張ったところで、サバイバル知識などない俺にできることは限られている。
少し、休もう。
またどこからモンスターが現れるかわからない状態では、眠ることはできなかった。ただ、手足を川原に投げ出した。
それだけ、疲れていたのだ。
陽光が気持ちいい。
俺が休憩しながらステータスを確認していると、HPの上にカロンという表示があるのに気がついた。ずっと目にはしていたのだろうが、今まで気づかなかった。
目にしても、今までは意味がわからなかっただろうが、どうやら、これは俺の名前だ。たった三文字のありふれた名前だが、俺が何者かと問われたとき、答えられる唯一のものだ。
俺は、カロンだ。
その下のMPの表示が変わっている。最高値が23なのは変わらないが、ゼロだったMPが3に増えている。
どうやら、分単位で回復するようだ。俺の感覚では、1分に1ぐらいのペースだろう。これが、戦闘中でも回復するというなら悪いペースではない。
だが、休憩中にしか回復しないのだとしたら、なかなか厳しい設定だ。まあ、宿屋で寝なければ回復しない昔の仕様に比べたら、随分助かるのは間違いない。
何しろ、死にかけても23分放置されれば全快するのだから。
このまま寝転んで全快を待ちたいところだが、寝ていないと回復しないのかどうかの確認も兼ねて、起き上がることにした。
少しの休憩で、体力も随分回復したような気がする。HPは魔法を使えば簡単に全快するが、MPと同じように休んでいても回復するらしい。
これは、カロンという少年の回復力でもあるのかもしれない。若い体というのは、ありがたいものだ。
現在の俺の装備は、『尖った石』に『布切れ』だ。始めたころは『粗末な服』だったものが、オオカミやアクアワームの攻撃を受ける間にあちこち破れ、現在の俺はただの『布切れ』で体を覆っている状態らしい。
服のほうは裁縫道具もないしどうにも仕方がないが、武器のほうはなんとかしたい。
尖った石一つでは、オオカミも倒せないのは実証済みだ。
せめて、石だけでも確保しようと、俺は川原に落ちていた手頃な石を拾い上げ、アイテムボックスに収納してみる。
収まった。アイテム名は、小石だ。
きっと攻撃力も高くないが、投げる程度には使えるだろう。
もう一つ拾って入れてみると、さっきと同じ場所に重なり、小石×2と表示された。
もともとアイテムボックスはかなりの容量がある。この分だといくらでも入れられそうだと、俺はどんどん石を拾っていった。
アイテムボックスには、一マスで99まで入ることが確認できたところで、俺はとりあえず石拾いをやめた。
ただの小石を集めても、ないよりはましだが武器として心もとない。
MPは有限なので、使っても減らない武器が欲しい。
俺は川原沿いの森を見て回った。森の中に入って、またモンスターと出くわしてもたまらないと思ったのだ。
ステータスを見ると、HPもMPも少しだけ回復していた。寝ていた時に比べて回復量が少ないように見えたが、活動している状況に合わせて変化するのだとすれば、かなり凝ったゲームシステムだ。ゲームシステムではない可能性の方が、もはや高いと思ってはいる。
森を除くうちに、手頃な木の枝を見つけた。
樹木に絡まった蔓もある。
俺は、蔓を引き抜き、尖った石を枝に挟んで、蔓で縛り付けた。
不恰好で強度も頼りないが、ちょっとした石斧が出来上がる。
俺の装備品が、『尖った石』から『粗末な石斧』にランクアップした。『粗末な』とつけたのは俺ではない。ゲームシステム的な判定なのだろう。
何度か素振りをして感触をたしかめると、俺は粗末な石斧を装備品の欄に戻した。さっき気がついたのだが、装備品の中でも武器は扱いが特別らしく、使用するときだけ出現して、そのほかの間はアイテムボックスと同様に装備品欄に収まっているらしい。
何度か、俺は尖った石をなくした覚えがあったが、相変わらず手に持っていたので不思議ではあった。
ゲームのシステムに、知らず知らずに支えられていたというわけだ。
これから、俺の異世界生活が始まる。
当面の目的はオオカミたちへの復讐だが、まずは腹が減った。
俺はアイテムボックスから、『焦げたオオカミの肉』を一つ取り出した。
これも実に不思議なことだが、『焦げたオオカミの肉』は、取り出したときに肉のブロック状態になって出てきた。
皮を剥ぐこともしていないし、下処理も何もしていない。それなのに、アイテムボックスに収納して取り出したというだけで、食べやすい塊になって出てきたのである。
ゲームシステムに感謝しながら、俺はまだほかほかと温かい焦げた肉に噛み付いた。
まだ、温かいのだ。
どうやら、アイテムボックス内では時間が停止するらしい。これなら、氷も保管できる。
冬になったら氷をたくさんしまいこみ、夏になったら売るのもいいだろう。
思いながら、俺は一体この世界に何年いる気だろうかと自分でもおかしくなる。
あるいは、残りの人生を一生カロンという少年として生きていくのだろうか。
焦げた肉は、生焼けだった。オオカミは犬科だ。犬を食べる国もあるぐらいだから、食べられないことはない。だが、その国でも生で食べているかどうかはわからない。
念のため、もう少し焼いておこう。
「ボヤ」
なけなしの魔力で肉を焼く。焦げた肉が火に包まれ、しばらくすると、『オオカミ肉のステーキ』と表示が変わった。
成功だ。
攻撃魔法のボヤで肉が焼けるのだ。何事も挑戦である。
俺はオオカミ肉のステーキにかぶりつく。肉の味がしっかりして美味い。これで調味料もあればもっとよかったが、空腹には十分な味だった。
気がつくと、ブロックのステーキを丸ごと完食してしまった。さすがに腹はいっぱいだが、一食で食べ終わってしまうことを考えると、オオカミは乱獲しなければならないかもしれない。
いや、そもそもステーキだけで完食したのがいけないのだ。俺のアイテムボックスの中には、食用のキノコも山菜もある。集めながら、鍋にしようと考えていたではないか。
問題は、鍋をどうやって手に入れるかだが、この際それは置いておこう。きっと、なにか方法がある。
この世界は綺麗だ。空気も澄んでいるし、オオカミの肉も美味い。汚染されていない世界なのだ。
まずはレベルアップ、と考えていた俺は、始める前に方針を変更することにした。
まずは、食料集めだ。
俺の目には、深い森が食材の宝庫のように見えていた。
森は確かに生命に満ちていた。だが、困ったことに、狩人でもない俺に簡単に捕まってくれるようなノロマな獣はいなかった。
小動物は、ペット用のケージの中ではおとなしいが、自然の中では実に素早い。
結局、俺のアイテムボックスの中は、山菜で埋まっていくのだ。
仕方ない。だんだん陽も落ちてきたので、食材を集める方法はまた考え直すことにする。
MPが回復すれば、少し大きめの動物も狩れるようになるだろう。
オオカミ1匹にボヤ3回で仕留められたので、最大値の23まで回復すれば、3匹倒せる計算になる。
問題は、群れに遭遇するとダメージも受けるので、回復しながら戦うことになることだ。
それでも、3匹は殺せそうだし、回復魔法も使える。石斧も手に入れた。
なら、今の強さでも、オオカミを狩るぐらいはできるのではないだろうか。
俺は考えながら森の中を歩いていた。
さっきまではあれほど慎重だったのに、腹がいっぱいになって、油断していたのだろう。
森の中に無警戒に分け入って、俺は背後に静かに迫る脅威に気がつかなかった。
突然視界が暗くなる。
どうやら、毒を打ち込まれたようだ。
そう思ったときには、地面に倒れる感触があり、何もわからなくなった。