192 鳥肌ぐらいは立つ
俺が、ケンとキサラを連れて街に繰り出した直後だった。
「カロン、変だよ。私の仲間達が逃げ出している」
俺が抱えるネコの頭上でネズミが言った。
「どういう意味だ?」
「怖がっているんだ。とても危険なものがいる」
「何がいるのかわかるかい?」
「とても、怖いものみたい」
往来である。人通りは絶えない。人間たちは、何も感じていないようだ。
むしろ、俺が抱えたネコの上で、ネズミがチューチュー鳴いていることに驚いている。
「ファニーはどうだ?」
「わからないわ」
「その怖いものはどこにいる?」
「あっちの建物ね。私の仲間達があの建物から遠ざかっている」
チューチュー鳴きながら、キサラが小さな前足で一方を差した。
「ケンは何か感じるかい?」
「……いや」
ケンは俺に抱かれたまま、耳をパタパタと動かし、髭を揺らしたが、何もわからなかったようだ。
「仕方ないわよ。私だって、自分で感じているわけじゃないもの。ネズミの本能かもしれない。なら、私にはそんな本能はないわ」
「ネズミ基準での脅威がどんなものかわからないけど、行ってみるしかない。戦いになるようなら、ケンはキサラを連れて逃げてくれ」
ネコのケンの方が、体はずっと大きく足も速い。
「わかった。任せろ」
「ファニーが捕われているのでなければ、戦う必要はないんだ」
「カロンは勇者でしょう?」
「今はただの興行師兼運び屋だろう」
キサラとケンを黙らせ、俺はネズミたちが逃げ出したという建物に近づいた。
特に目立つ特徴のない建物だ。
看板が出ている。建物に特徴はないが、個室付きのいかがわしい店らしい。
「ファニーはいないよな?」
俺は、ベッドを意味する看板を見上げた。
「どうだろう? 俺にはわからないな」
「いたとしても、捕まっているんでしょう。カロン、助けなくちゃ」
「あ、ああ。そうだな」
ニャーニャーチューチュー言われ、俺は頷いた。
扉を開ける。
薄暗い受付に、禿げ上がった厳つい体格の男が1人で座っていた。
何をするでもなく、頬杖をついている。
「キサラ、どこだ?」
「2階ね」
俺は2階に向かおうとした。
「おい、勝手に通ってもらっちゃ困るぜ。部屋を借りるのか?」
カウンターで暇そうにしていた男に呼び止められる。
「カロン、どうせ騒ぎになるぜ」
「でも、カロンが戻っていることは、あまり知られない方がいいんでしょう?」
俺の腕の中で、議論が勝手に進む。
キサラが正しいようだ。
「ああ。部屋を借りたい」
「1人でか?」
「1人じゃない」
俺は、抱えていたケンを持ち上げた。あえてキサラはケンの毛の中に埋めた。衛生的にネズミを嫌悪する店舗は多い。
「変な趣味だな。まあ、好きにしな。変な道具を使って、汚すなよ」
「わかっている」
俺は言うと、指定された料金を支払い、部屋の鍵を預かった。
「カロン、さっきのは冗談だよな? 俺を部屋に連れ込んで、変なプレイしないよな?」
「するわけないでしょう。何の心配をしているのよ」
俺の腕の中で怯えるケンに、キサラが呆れた声を出す。
俺たちは2階に上がった。
「キサラ、わかるか?」
「ちょっと待って」
先ほど、キサラはネズミとしての本能は自分にはないと断言した。
だが、全くないわけではないのだろう。
俺に待つよう言うと、キサラは自分の腕を見つめた。
「ちょっと、この通路を歩いてみて」
「ああ」
俺はあえて、ゆっくり通路を歩いた。
自分の前足をじっと見ていたキサラが、俺の腕をぺしぺしと叩いた。
「この部屋ね」
「どうしてわかった?」
「私が感知できないだけで、この体はネズミだもの。本能で逃げ出すぐらいだから、鳥肌ぐらいは立つわよ」
キサラが前足を見ていたのは、鳥肌を確認していたらしい。
「ケン、中に何がいるかわかるか?」
俺は、自分で抱えたままのネコに尋ねた。
「特に何も感じないけど……声がするな」
ケンは、よく動く茶色い三角の耳を扉に向けた。
「うん……何人かいる。でも、1人はファニーじゃないかな」
俺は、いかがわしい個室の宿屋に来ている。
ファニーは、少年カロンの思い人で、現在は俺の妻だ。
そのファニーが、複数の人間と同じ部屋にいる。
「ファニー以外の人間の性別はわかるか?」
「男だと思う」
「わかった」
俺は、十分に耐えたと思う。
これ以上は我慢ならなかった。
205と書かれた木の扉を蹴り付けた。
取手が弾け飛び、扉が勢いよく開く。
「ファニー!」
俺は叫んでいた。
だが、大きく口を開けたまま、動けなくなった。
ファニーがいた。複数の男がいた。
男たちは、見たことがあった。
かつて、この国に戻ろうと決めた時、ファニーが外出して戻らないことがあった。
あの時、ファニーと話していた男たちだ。
4人いた。
ファニーは服を着たままだった。
優雅に足を組み、椅子に腰掛けていた。
4人の男たちは、床の上でぐったりとしたまま動かない。
「……ファニー、何をしている?」
「カロン、迎えに来てくれたの? ありがとう」
振り返ったファニーの笑みは、ゆったりとした余裕を感じた。
もう、太った令嬢に虐げられて怯える少女の面影はなかった。
「こいつらは?」
「私に仕えたいって。変な人たちね」
「あ、ああ……」
俺は、何も言うことができないまま、ファニーが伸ばした手をとった。
「このままでいいのか?」
「カロンが気に入らなければ、殺してもいいわ」
「いや、いい」
「そう。優しいのね。もう行きましょう」
「ああ」
俺はファニーに連れ出されるように部屋を出た。
フラウは言った。あれはもう、ファニーではない。
俺は、ファニーが何か得体の知れないものに変わってしまったような錯覚に陥りながら、そんなはずはないと自分に言い聞かせた。