187 さらってでも連れて行くって、言ってくれないのね
俺が寝ていた部屋に、俺とアデルに加え、痩せほそったファニーが残った。
「カロン……カロン、でいいのね?」
ファニーは、俺の顔色を窺うように尋ねた。俺は頷く。
「もちろんだ。俺は、君の知っているカロンじゃない。でも、カロンであることに違いはない」
「……わからないわ」
「君の知っているカロンは、一度死んだ。俺は、別の人格だ。ついでに、カロンだった時の君の記憶は残っていない」
「そう」
ファニーは不安そうに頷いた。
「あんただって、わかっているんだろう? そうでなきゃ、奴隷の身分で、王太子のカロンにため口で話しているはずがない」
「……はい。そうね。カロンは、どうしてかわからないけど、王太子殿下なのね。ごめんなさい。つい、昔みたいな話し方をしちゃった」
俺は、アデルに向かって首を振った。アデルは小さく舌を出した。俺はファニーに向き合った。
「君の知るカロンは、そもそも王が侍女に産ませた子どもだったらしい。だから、君は王太子と知り合いだった……いや、王太子が好きだった女の子が、君だったんだ。そのことは間違いないし、ファニーはそのままでいい。人前では困るが、俺とアデルしかいないところでは、口調は改めなくていい」
「ありがとう」
ファニーは長いが潤いのない髪をかき上げながら笑った。
俺は、カロン少年が憧れる気持ちが、少しわかったような気がした。
「ファニーは……自由を与えられた。そう思っていいのか?」
「ドドンゴ様が正式に手続きを取ってくだされば、私は自由になれます。でも、私のことを自由にすると言っただけでは、私はただ、路頭に迷うことになります」
奴隷としての主人からは自由になっても、世間的には奴隷として認識されたままだということだろう。
「どんな手続きがいるんだ?」
俺は、アデルが知っているかもしれないと思ってアデルを見ながら尋ねたが、アデルは首を振った。
ファニーが答える。
「奴隷を自由民にするという契約書に署名して、管理局に届けることが必要よ。書類を作っても、自分では届けられないわ。主人を襲って従わせているかもしれないから」
「簡単な手続きじゃないか」
アデルは簡単だと言うが、俺にはそう思えなかった。
「ドドンゴ令嬢が、本気でファニーを自由にするつもりならそうだろう。それと……今のドドンゴ令嬢は、そんな手続のことなんか理解していないんじゃないかな」
「どうして?」
俺は、ファニーに尋ねられて驚いた。
「人格が入れ替わっている。わかっているだろう?」
「そうなの? どうしてそんなことに?」
俺は、アデルと視線を交わした。本気で言っているようだ。アデルが口を開く。
「元々のドドンゴ令嬢は、カロンに惚れていた。だから、どんな女が相手でも嫌がった。でも、今の令嬢は、勇者であり王太子のカロンが好きなのさ。利用価値があると思っているんだろう。だから、カロンがドドンゴ令嬢と結婚さえするなら、別の女がどれほどまとわりつこうが気にもならない。だから、カロンがファニーを譲ってほしいと言ったら、すぐに応じた」
「言ったの?」
「いや」
ファニーに尋ねられ、反射的に素直に答えてしまった。
アデルに足を蹴られた。
アデルに蹴られた足は痛かったが、それよりもファニーが頬を膨らめたことに俺は慌てた。
「とにかく、人格が入れ替わっていなければ、ドドンゴ令嬢がファニーと俺をこんな時間に一緒の部屋にして、出ていくわけはない」
「それはそうかもしれないわ。でも……どうして、人格が入れ替わるなんてことが起きたの? その人格はどこから来たの?」
俺は再びアデルと視線を交わし、黙っている必要はないと判断した。
「ドドンゴ令嬢は、魔王に攫われる令嬢に憧れ、勇者に救出されることを夢見ていたらしい。実現させるために、異世界の魔王を召喚したんだ。この世界の魔王は、俺が滅ぼしたから」
「……では、ドドンゴ様の中にいるのは……誰?」
「魔王とは決まっていないよ。魔王を召喚しようとしていたのは確かだけど、召喚されたのが魔王かどうかは、確かじゃないんだ」
アデルの言葉に、俺も自分の認識を確認しながら頷いた。
「では、私はこれからどうしたらいいの? ドドンゴ様にお仕えしていれば、お助けする機会もあるかもしれないわ」
「駄目だ。それは危険すぎる」
俺が言うと、アデルが頷いた。
「もし、あの太った令嬢の中身が異世界の魔王だったら、人間の命を奪うのは簡単だ。元のドドンゴ令嬢の魂の場所はわかっている」
「ドドンゴ令嬢は、俺がファニーを引き取っても構わないと言った。俺のそばにいてくれ」
ファニーは戸惑った表情をした。当然かもしれない。
ファニーが元のカロン少年をどう思っていたのかはわからないが、中身が別人だと知れば、むしろ居心地は悪いだろう。
アデルが口を開く。
「カロン、わかっているのかい? ドドンゴ令嬢は……入れ替わった別人格の方だけど……ファニーを渡すって言ったのは、あんたがドドンゴ令嬢と結婚するのが前提なんだよ。ファニーを引き取るってことは、ドドンゴ令嬢とすぐにでも結婚するってことだ」
「……わかっていなかったよ」
アデルが舌打ちをした。
「そんなことだろうと思ったよ。どうする? 退治するかい?」
アデルは手を開閉させた。
アデルはあまり武器を使用しない。
小さいが固い肉体を持ち、拳で殴るのが最も強いのだ。
「誰も、ドドンゴ令嬢を魔王だと認識していないのにか? この国が財政的に破綻する。それをわかっていて、無茶はできない」
「ならできるのは、令嬢と結婚するか、あるいは逃げるかだね。この国から逃げてしまえば、結婚はしなくてすむ。ドドンゴ令嬢の中身が魔王として本領を発揮するまで待つことだ」
「その場合……この国はどうなる?」
「滅びるかもね。でも、再建はできるだろう。手遅れにならなければだけどね」
「そうだな」
俺たちと同じ世界から来た魔王を倒した時のように、城を爆発魔法で吹き飛ばしてしまえば、再建はできないだろう。
この国がなくなるかもしれない。
「この国がなくなるかもしれないというのに、この国の犠牲になって結婚する必要はないな」
俺は結論づけた。
王太子としては、無責任も甚だしい。
だが、俺は気乗りしない結婚をするためにこの世界で頑張って生きてきたわけではない。
俺は、逃げることにした。
「ファニー、俺は逃げる。君はどうするんだい?」
「さらってでも連れて行くって、言ってくれないのね」
今までの、儚げな様子とは違った。ファニーは、小さく微笑んだ。
「さらってでも連れて行く。時間はたっぷりある。俺が忘れてしまったことを、思い出させてくれ」
「ええ。わかった」
「じゃあ、気をつけな」
俺がファニーの手を取った時、アデルが言った。俺は、小さな黒い姿を凝視した。
「アデル、どういうことだ?」
「もしドドンゴが本物の魔王だとすれば、正体を知っている奴が、そばにいる必要があるだろう。魔王の本性を表した時、被害を小さくできる奴がいたほうがいい。あたし以外にいるかい?」
つまり、アデルは魔王を制するために、城に残ると言っているのだ。
俺は迷った。アデルのことは一時忘れたが、魔王討伐を成し遂げた唯一の仲間だ。
ずっと一緒にいるものだと思っていた。
だが、アデルの決意が変わらないことは間違いない。
「アデル、気をつけろよ」
「誰に言っているのさ。決めたのなら、とっとと行きな」
最後にアデルは、俺を蹴り飛ばす素振りをした。
実際には、足が短くて届かなかった。
俺はファニーの手をとり、引き寄せた。
ファニーの細い体が俺の腕に収まった。
持ち上げると、驚くほど軽い。
俺はファニーを抱え、壁に『バンレベル2』を使用し、穴を開けた。
外につながる。
俺は、ファニーを抱きかかえたまま公爵邸の3階から飛び降りた。