186 君の知っているカロンは死んだ
ソマーレス公爵邸で、俺は目を覚ました。
まだ夜中だ。
冒険者として過ごしてきた感覚が、夜が明けていないことを告げている。
だが、寝起きとは思えないほど、頭の中がはっきりとしていた。
尿意があったわけではない。
ただ、目覚めた。
アデルが床の上でいびきをかいている。
理由もなく目覚めることもあるだろう。慣れないベッドと布団と枕なのだ。
寝付けなかったのだろう。
俺が寝直そうとした時、俺が寝ている部屋の扉が、音もなく開いた。
静かに、太い脚が入ってきた。
分厚い体が脚の後に続いた。
小さなランプの灯りが闇を払う。ランプが非常に小さく見えた。
持っている本人が大きかったのだ。
ドドンゴ・フェル・ソマーレス公爵令嬢だ。
俺は違和感を持った。ドドンゴ令嬢が忍んできたからではない。
ドドンゴ令嬢が、実に静かに移動していることを奇妙に感じたのだ。
ドドンゴ令嬢が、いびきをかいているアデルを踏んだ。
アデルは起きなかった。
踏まれ、ドドンゴ令嬢の全体重がかかっても、アデルは目覚めなかった。
アデルの体であれば、苦痛ですらないのだろう。
俺はベッドの上で眺めていた。
起きていることを悟らせるべきかどうかすら、判断できずにいた。
ランプの灯りが俺の顔を照らす時、俺は目を閉ざした。
ドドンゴ令嬢がベッドに近寄る。
灯りが、ベッドの枕元に置かれた。
ランプの覆いが閉ざされる。
部屋が闇に閉ざされた。
俺は、目を開けた。
残念ながら、暗闇でも見えるスキルは盗賊しか持っていない。
俺は勇者のままだ。暗くては見えない。
だが、ベッドの側で膝をつき、俺を見下ろしているドドンゴ令嬢の瞳だけが、はっきりと見えた。
俺は声を出さなかった。
ドドンゴ令嬢は、闇でも昼間のように見透かすことが出来る。ドドンゴ令嬢の瞳を見た時、それを悟った。
そもそも、ランプを持ってくる必要もなかったはずだ。自分が何者かを隠すために偽装していたようだ。俺にはそう感じられた。
「起きたのね?」
ドドンゴ令嬢が静かに言った。俺は尋ねる。
「あなたは誰だ?」
「カロン殿下の婚約者よ。忘れたわけではないでしょう?」
「目的は?」
「カロン殿下と結ばれること」
「つまり……王妃になりたいのか?」
「『王妃』? ああ……そうね」
俺は、ドドンゴ令嬢の中の存在が、王妃という立場に興味がないのだと理解した。
どうやってかはわからないが、俺がドドンゴ令嬢の婚約者であり、王太子であることを知っている。
俺は、王になりたいわけではない。
俺は、動かずに言った。
「王位を公爵に譲るよう、王に進言する。その代わり、キャサリンと話がしたい」
「どうして、私がキャサリンとかいう女のことを知っていると思うの? カロン殿下を誘惑するような女、八つ裂きにしてやるわ」
「キャサリン、聞こえていないのか? どこにいる?」
「ここにいるのは、ドドンゴとカロンだけよ」
ドドンゴ令嬢がにたりと笑った。
「ドドンゴとカロンだけじゃないだろう」
ドドンゴ令嬢の背後から声が聞こえる。
さっきから、アデルのいびきが止まっていたのだ。
ドドンゴ令嬢の背後で、真っ黒い小さな体が起き上がっていた。
「公爵令嬢と王太子殿下の逢瀬に、侍女悪魔ごときが口を挟むの?」
「ああ。あたしは悪魔だけど、侍女じゃないんでね」
「なら、なんなの?」
「俺の仲間だ」
俺が言うと、ドドンゴ令嬢が再び俺に視線を向けた。
ねたりとまとわりつくような視線は、夜に光る瞳とあいまって非常に気持ち悪い。
「殿下には、こんな仲間は必要ありません。必要な仲間は、私だけ」
「キャサリンを呼んでほしい。俺は、キャサリンと話したい」
「まだ言うの? そんな女、見つけ次第殺してやる。いえ、近くにいるのね? 私が隠していると思っているのね? わかったわ。キャサリンを連れてくるわ」
ドドンゴ令嬢が出ていく。俺は追おうとしたが、アデルが止めた。
「どうして止めるんだ。誰かをキャサリンと勘違いしている。殺されるかもしれない」
「だからって、あたしやカロンがついて行っても、すぐに見つかっちまう。誰を連れてくるか、すぐにわかる。我慢しな」
「ああ。わかった」
アデルが言った通り、ドドンゴ令嬢がのしのしと戻ってきた。
扉を開けるなり、俺の部屋にファニーを投げ出した。
床に転がるファニーのやせ細った体を、俺は抱き止めた。
「カロン殿下、キャサリンとはこれのことですよね?」
「違う。これはファニーだ。ずっと侍女として仕えていたはずだ。どうして、こんなことをするんだ」
ドドンゴ令嬢が大股で近づいてくる。ファニーは怯えて俺にしがみついた。
俺は、ファニーを抱き寄せていた。
「ほらっ。カロン殿下がお好きなのは、キャサリンなのでしょう? 泥棒猫、これでも食らいな」
ドドンゴ令嬢が腕を振り上げ、ファニーを殴ろうとした。
俺はその腕を弾き飛ばし、ファニーを抱き上げた。
「この娘はキャサリンじゃない。キャサリン、どこにいる。返事をしてくれ」
「お嬢様、戻ってきてください」
俺が何に呼びかけているのかに気づき、ファニーが叫んだ。
だが、ドドンゴ令嬢は薄く笑みを浮かべただけだった。
「この私を、主人として認めたくないというのなら、結構よ。出て行きなさい。もう、お前に用はない」
ドドンゴ令嬢は、ファニーを指差した。
「……えっ? でも……」
「ファニー、いいんだ」
俺は囁く。ファニーは、ドドンゴ令嬢の意識が他の何者かに奪われていることを理解したのだろう。
だから、別の人格により解雇されたことを戸惑った。
そもそも、奴隷の身分なので解雇されることはあり得ない。
だから、戸惑ったのだ。
だが、俺はファニーに囁いた。
「これ以上、この令嬢のそばにいるのは危険だ。俺が守る。君の知っているカロンは死んだ。だが、その代わりに約束を守らせてくれ」
ファニーは振り向いた。俺の顔を凝視した。
俺は頷く。ファニーは、ほんの微かに首肯した。
「カロン、キャサリンはドドンゴ令嬢のペンダントに封印されているよ。間違いない」
アデルが断言した。アデルはずっと、ドドンゴ令嬢を観察していたのだろう。
アデルの声とともに、ドドンゴ令嬢は自分の首に下がったペンダントを持ち上げ、顔の高さに持ち上げた。
「……キャサリン? キャサリン……キャサリン……なるほど、そういうことね。カロン殿下、王位を私の父に譲るという提案には、賛同できませんわ。私が欲しいのは王太子であり、未来の国王であり、勇者である、カロン殿下なのですから」
ドドンゴ令嬢はそう言うと、背中を向けて出て行こうとした。
ペンダントは首から下がったままだった。
「ドドンゴ令嬢、キャサリンを渡してくれ」
「お断りします。それに、いいのですか? その娘はカロン殿下に差し上げましょう。キャサリンが戻れば、再び奴隷に戻されますよ」
ドドンゴ令嬢が振り向く。
首には、キャサリンが封印されているらしいペンダントが光っていた。
俺には、ドドンゴ令嬢は危険だという認識があった。
だが、キャサリンが今のドドンゴ令嬢よりましかと言われれば、否と答えざるを得ない。
少なくとも、俺が入り込む前の少年カロンが愛したファニーにとっては、千載一遇のチャンスなのだ。
「カロン、どうする? 行かせるのかい?」
アデルがドドンゴ令嬢を見送りながら尋ねた。
俺は応じる。
「まずは、ファニーを安全な場所に。それと、十分な補償をしてやりたい」
「わかった」
アデルは言うと、ドドンゴ令嬢が出て行った部屋の扉を固く閉ざした。