185 キャサリンと同衾する男など、全て爆発してしまえばいい
ファニーは、触れれば折れてしまいそうなほど細かった。
筋力と言っていいのかどうかわからないが、俺の力は強い。
ファニーを抱いたまま移動した。通路に降ろされたファニーは、俺の体を突き飛ばそうとし、自らが尻餅をついた。
「カロン、私に近づかないで。お嬢様がどれだけあなたを独り占めしたがっているか、わかっているでしょう」
「ファニー、そのお嬢様の前で、君を抱き上げて移動した。どうして、キャサリンは追ってこないと思う?」
「どうしてって……」
「昨日までのキャサリンなら、露骨に別の女を見ただけでヒステリックに叫び声を上げた。それなのに、俺が君を抱き上げても、何も言わない。どうしてだ?」
「わからないわよ。どういうこと?」
「考えるんだ。君は頭がいいだろう」
俺に、ファニーの記憶はない。
ファニーについての情報は、俺が覚えていた頃があったらしく、俺がアデルに語ったことを、アデルから聞かされたものだ。
「違うわ。頭がよかったのはカロンよ。私は、カロンからいろんなことを教わった。私が教えられることなんて、何もなかったわ」
「そうなのか?」
俺が尋ねると、アデルが真っ黒い舌を出した。
「あたしに言ったのはカロンだ。カロンは、少なくとも、ファニーは頭がいいと思っていたはずだ」
「『はず』って……どういうこと?」
俺は、ドドンゴ令嬢の話に戻したかったが、アデルが許してくれなかった。
ファニーはすでに、俺の状況は知っていると思っていた。
俺はあえて言った。
「俺は魔王との戦いで、何度も自分の限界を超える力を使用した。アデルが言うには、その度に、大切な記憶が消えてしまっているらしい。一時はアデルのことも忘れたんだ。忘れた記憶については……まだ戻らない」
「じゃあ、私のことは……」
ファニーのことを忘れてしまったことは知っていると思っていた。
どうしてファニーのことを忘れたのかまでは言っていなかったのだと、俺は理解した。
「一番先に忘れたのが、あんたの記憶だ。カロンにとって、最も大切な記憶だったんだろう。代わりに、その時の敵は倒した。あたしは、このあたしのことを忘れるなんて生意気だから、ぶん殴ってあたしのことを記憶させた。思い出しはしなかったけどね。ファニー、あんたはどうする?」
ファニーの視線がアデルに向かう。
その視線が彷徨った。小さく首を振る。
「私は……奴隷だもの。世界を救った勇者様で、実は王国の王太子でしたなんて……カロンが私のことを忘れているなら、忘れたままのほうがいいんだわ。カロンの邪魔はできない」
「その挙句、あれと結婚する羽目になっても?」
アデルが『あれ』と呼んだのは、間違いなくドドンゴ令嬢だ。
実際に、ドドンゴ令嬢の部屋を指差している。
「お嬢様は、気性は激しいけど好い方よ。口も悪いけど、我慢すれば、きっと上手くいくわ」
「昨晩、ファニーの体に魔王を降臨させようとしたんだぞ」
俺が言うと、ファニーの眉が寄った。細く薄いが、形のいい眉が大きな目を際立たせている。
確かに痩せ細ってはいるが、とても魅力的な女性なのは間違いないだろう。
「お嬢様が? どうして、そんなことをするの?」
「魔王に囚われ、勇者に救出されるお姫様を夢見ていたらしい」
「……それなら、お嬢様らしいわ」
「でも、そめのために君が魔王になり、俺はその魔王を倒さなければならなかったかもしれない。キャサリンは、君を犠牲にしようとした。義理だてする必要があるのかい?」
「でも、私に何ができるの?」
「あのお嬢様は、昨日までのお嬢様ではない。アデルは悪魔族だ。この世界の魂か異世界の魂か、見ればわかる。今のキャサリンに、別の世界の魔王の魂が入っているのなら、本来のキャサリンの魂がどこかにあるはずだ。もっとも……俺としては、今のほうが昨日までのキャサリンよりましに見えるけどね」
「酷いわね」
言いながら、ファニーの頬が緩んだように見えた。気のせいかもしれない。
少なくとも、俺を拒絶する態度ではなくなった。
「アデルのことは信じているが、正体を明かさせないと、俺はドドンゴ令嬢に歯向かうわけにはいかない。キャサリンを助けられるかどうかはわからないが、キャサリンの中にいる者が何者か、はっきりさせる必要がある」
「私は、どうすればいいの?」
「キャサリンに張り付いて、監視してくれ。いつもと違う行動があれば教えてほしい。いいかい、フラウもこの屋敷で働いていることになっている。フラウを頼るんだ。フラウなら、俺がどこにいても、連絡をつける手段を知っている」
俺が一息に言うと、ファニーは頷いた。
「フラウのこと、お気に召したのね」
ファニーは立ち上がると、背を向けて歩き出した。
それ自体は何も悪くない。
だが、俺は妙に寂しくなった。
「……俺、何か間違ったことを言ったか?」
「いいや。いつも通りさ」
アデルは、慰めるように俺の肩を叩いた。
※
俺は、ソマーレス公爵邸に泊まることにした。
ドドンゴ令嬢の様子と、何より一緒にいるファニーのことが心配だったのだ。
ファニーのことは、いまだに何も思い出せない。
だが、俺が入り込んだカロン少年が愛した少女だというだけでなく、俺もファニーに惹かれ始めていたのかもしれない。
ファニーが、ドドンゴ令嬢の呼び出した何者かの餌食になるのを、黙って見ている気にはなれなかった。
王城から戻った公爵本人に邸宅への宿泊を申し出ると、公爵は俺の肩を掴んで快哉を挙げた。
「素晴らしい。上手くいったのだね。キャサリンと同衾する男など、全て爆発してしまえばいいと思っていたが、カロン王太子であれば話は別だ。泊まるのは、もちろんキャサリンの部屋なのだろうね?」
「公爵、俺とキャサリンを結婚させようとしないほうがいいでしょう」
俺ができるだけ真面目に見える表情で囁くと、公爵の顔も引き締まった。
ただの陽気なおじさんに、公爵は務まらないだろう。一代で公爵位を買い取るだけの巨大商会に成り上がったのだ。只者ではないはずだ。
「どういうことだい? キャサリンは、カロン王太子を愛しているはずだよ」
「ドドンゴ令嬢は、キャサリンという女が別にいると思っています。ドドンゴ令嬢の前で、キャサリンとは呼ばないでください」
「……うっかり言ってしまうとどうなる?」
「俺とキャサリンを結婚させようとしている敵だとみなされるでしょう」
「あの娘に敵視されるのは耐えられないな。わかりました。カロン王太子殿下は、客間でよろしいですか?」
「はい。ありがとうございます」
「あたしはベッドはいらない」
忘れられていた小さなアデルに、公爵は驚きを隠さずに頷いた。
「キャサリンに、一体何があったのですか?」
客間を案内すると言って歩き出しながら、ソマーレス公爵は尋ねた。
「キャサリン自身はどこかにいるかもしれません。あるいは、自分の体の中にいるかもしれません。ですが……今は別の人格が表面に出ているようです」
「『別の人格』とは?」
「キャサリン自身が異世界から召喚した何かかもしれませんし、ひょっとして、キャサリンは自分で別の人格を作り出してしまったのかもしれません」
言いながら、俺は以前の人生での知識を引き出していた。
多重人格という存在は広く知られていた。
自己否定から、本来の主人格とは別の人格を生み出し、現実逃避することがあるらしい。
多くは、幼少期の悲惨な体験がきっかけになると読んだことがある。
だが、ドドンゴ令嬢の性格や人生から、よほど特殊な経験をしなければそんなことは起こり得ない。
今まで、キャサリン以外の人格を見たこともなかった。
多重人格ではないとすれば、やはり異世界から召喚された何者かが支配していると考えるべきなのだろうか。
「そんなことが本当にあるとして、見分けられるのかい?」
「……この世界の魔法で、治療を試みてはいかがですか?」
ソマーレス公爵が足を止め、扉を開けた。
広すぎず狭すぎもしない、品の良い来客用の寝室だった。
「カロン王太子にとっては貧相な部屋になるだろうが、冒険者だったカロン殿下には、こうぐらいのほうが落ちつくのではないかと思ってね」
「感謝します」
俺は素直に礼を述べた。俺を中に通しながら、公爵は言った。
「カロン殿下は、回復魔法も得意だと聞きました。キャサリンの治療をお願いできないのですか?」
「俺の使う魔法は、この世界の魔法からは異質です。回復魔法と言っても、怪我からは回復しますが、病気や呪いの類には効果がないのです」
「やはり勇者殿は、変わった力をお持ちなのですね。わかりました。王都で一番の治癒術師を呼び寄せます」
公爵は力強く言うと、扉を閉めた。
俺は、扉の外に誰もいないことを確認し、アデルに尋ねた。
「アデル、ドドンゴ令嬢が召喚した、異世界の『何か』って、なんだと思う? 本当に異世界の魔王だと思うか?」
「可能性はあるだろう。あたしだって……元のアデルの記憶の全てを見られるわけじゃない。でも、もし異世界の魔王だとしたら、ちょっと困ったことになるかもね」
アデルは、長椅子に置いてあるクッションをかき集めてベッドを作りながら言った。
アデルの体は硬く、重いためベッドは不要だが、寝やすくする努力は怠らないのだ。
「『困ったこと』って、例えば?」
「あたしたちが倒した魔王は、あたしたちと同じ解釈の能力を持っていた。もし、異世界の魔王ってことなら……カロンやあたしが普段使っている攻撃魔法は、別の世界の産物ってことで、一切効果がないかもしれない」
「……しかし……」
「この世界の魔物たちには効いていた。でも、利き方があたしたちが知るゲームの中の効果とは、違ったはずだ」
俺は頷いた。
確かに、ボヤの魔法で本当に点火ができるとは、思いもしなかった。
バンは爆発する。だが、自分が吹き飛ぶことがあるとは思えない。
ビリは雷属性の優秀な魔法だが、人間の心臓マッサージに利用できるとは思いもしなかった。
「もし……魔王ではなかったら?」
「それほどの脅威ではないことを祈るだけだ。結局、あたしたちの力が及ぶかどうかはわからない。魔王だろうが、それ以外の何かだろうが、同じことさ。ファニーの報告を待つんだね」
アデルは言うと、敷いたクッションの上で横になり、真っ黒い瞼を閉ざした。