183 キャサリンが変わってしまった
深夜のうちに王城に戻り、俺はベッドの上で眠れないまま横になっていた。
俺とアデルが抜け出したことは、ネコのケンとネズミのキサラだけが気づいていた。
心配するネコとネズミをひと撫でし、俺はベッドで横になった。
アデルも気持ちは同じだろう。
だが、アデルはベッドには寝られない。
カーペットで横になり、アデルは口を開いた。
「魔王の召喚には、成功したのかい? それとも、失敗したのかい?」
「俺もわからない。もし成功したとすると……また、同じような戦いになると思うか?」
ケンは口を挟まないことに決めたらしい。
横になったアデルの上で伸びをして、寝返りを打った。
「以前倒した魔王ってのは、あたしたちの世界が生み出した化け物だった」
「ああ」
魔王の正体は、この世界に転生した小さなダニだ。
だが、その力は俺たちがもともといた世界で設定されたものだ。
「だけど、火鬼のビリー、カロンが倒した海賊ホライ・ゾン、爆発させて吹き飛ばした氷の女王は、いずれもこの世界で生まれた魔物だ。魔王に従う前から、各地で恐れられていた魔物だった」
アデルは、短くて黒い指を自分の額に当てていた。
アデルの癖だ。アデルは、アリスではなく元々の肉体の持ち主である悪魔族の魔獣使いアデルの記憶を探す時、脳を刺激するように指で頭部を叩く。
今言ったアデルの知識は、火鬼のビリーの愛人時代の記憶だろう。
「強かったな。だが、今なら負けないだろう?」
「だろうね。この世界の魔物を支配していたボスたちが魔王と認めた存在を、あたしたちが倒したんだ。魔王の配下には負けやしない。でも、この世界の魔王ってのは……本当に、ララに住んでいたダニなのかい?」
「この世界の、本来の魔王がいるはずだってことかい?」
「あるいは、そんな奴はいないかもしれない。でも……あの令嬢の言うことを聞いただろう。異世界から魔王を召喚しようとしていた。生贄として血を流す何かが捧げられ、依代となる肉体が用意された」
「どうして……その依代がファニーなんだ?」
聞かなくともわかっている。だが、口に出さずにはいられなかった。
俺が、ファニーを気にかけていたからだ。俺の気を引くために、ドドンゴ令嬢は魔王を召喚することにし、勇者の気を引く余計な奴隷を魔王の器にしようとしたのだ。
「あの子のこと、思い出したかい?」
「いや……全く思い出せない。だけど、放っておけない。どうしてか、胸騒ぎがする」
「あの子が魔王となった場合、カロンは倒せるかい?」
「倒さなくても、助ける方法を探すさ」
「倒さなくては、世界が救われなくてもかい?」
「俺は……勇者だからな」
「ああ。そうだね」
アデルは口を閉ざした。
話しているうちに、気持ちが楽になった。
何も解決はしていない。
魔王召喚がただの茶番に終わることもあるだろう。
心配しても仕方がない。
俺も、次第に眠りに誘われた。
※
俺は、雄叫びをあげているような、男の声に起された。
眠ったのが遅かったため、かなり眠い。
アデルはすでに起きていた。
ケンとキサラは、じゃれあって遊んでいた。
『お待ちください! 殿下はお休み中です』
『わかっている。だが、一刻を争うのだ。キャ、キャサリンを助けられるのは、勇者カロンしかいない!』
『この王城にいるのは、勇者カロンではございません。カロン王太子殿下です』
俺を起こした言い争う声は、少しずつ近づいてくる。
「カロンの客だね。どうする? この部屋のすぐ近くまできているし、この部屋まで来られるってことは、かなりの身分なんだろう」
部屋の外から聞こえてくる会話に全く慌てることなく、アデルが伸びをした。
ダンジョンの奥深くに潜り、命がけで魔王を倒してきた。何が起ころうと、アデルも俺も慌てることはない。
「ああ。『キャサリン』って言っていただろう。ソマーレス公爵だ」
「なるほど。あたしは、カロンほど公爵と親しくないし、キャサリンっていわれても、すぐにはあの御令嬢と結びつかないのさ」
アデルは唇を尖らせた。
俺は、ベッドから立ち上がった。
「通してやれ」
扉に向かって大きめの声をかける。
『はっ。お目覚めですか』
外の通路から答えが返ってきた。
「王太子殿下の身分にも、だいぶ慣れてきたみたいだね」
アデルはにやりと笑った。俺の言い方を笑っているのだろう。
「慣れるしかないだろう」
「いや。いいことだ」
アデルは言いながら、ケンとキサラをベッドの下に追いやった。
扉が開く。
俺が見知ったまだ若い公爵家の当主が、口髭を震わせて俺の肩を掴んだ。
「息子よ。いや……カロン殿下、大変です。キャサリンが、キャサリンが変わってしまった」
俺の肩を掴んで揺さぶったのは、俺も数度しか会ったことがないドドンゴ公爵令嬢の父親で、公爵家当主である。
俺は、昨晩のドドンゴ令嬢を思い出した。
魔王を召喚しようとした。
その結果は、俺は失敗だと思っている。だが、定かではない。
「ソマーレス公爵、落ち着いてください。キャサリンが変わってしまったとは、どういうことですか?」
俺は、公爵の腕を払いながら尋ねた。公爵家当主に対して失礼な態度だが、王太子であれば許されるだろうと想像してのことだ。
「今朝のことだ。いつも昼近くまで眠り続けているキャサリンが、日の出と共に起きる私より先に目覚めた。言うに事欠いて、『おはようございます、お父様』などと言ったのだ」
ソマーレス公爵は、鬘を外して髪をかきむしった。
細面の貧相な公爵だが、鬘を外すとさらに弱そうに見える。
「どこがおかしいのですか? 普通じゃないですか」
普段はどんな挨拶をしているのか気になったが、尋ねる前に公爵は話し続けた。
「朝食に、牛の丸焼きを一頭食べたのだ」
「……そんなに……」
いくらドドンゴ令嬢が大喰らいでも、牛一頭を朝食に食べるのは食べ過ぎだ。
公爵は恐ろしそうに首を振った。
「普段は牛だけでなく豚の丸焼きに食パン3斤、パスタ10キロを食べて、健康のために腹八分目にしようと言うのがキャサリンだ。いつもの半分に満たない食事量で、お腹がいっぱいなのだと言ったのだ」
ドドンゴ令嬢は、無理を言って牛の丸焼きを注文したのではなく、普段から朝食に牛の丸焼きのみならず、大量の食事が出ていたらしい。
俺は、公爵の肩を叩いた。
「俺は勇者ですが、そんなには食べられません」
「私だって、朝は薄く切ったパンにチーズを載せただけで満足している」
ドドンゴ令嬢の父とは思えないほど、少食だ。
「しかし……俺にそれを言われても、どうしたらいいのですか?」
ソマーレス公爵は、ぶるぶると震えながら答えた。
「カロン殿下、キャサリンは、自分を見失っているのだ。カロン殿下のことが恋しすぎて、自分の魅力がなんなのか、わからなくなっているのだ。今すぐ、婚姻してほしい」
「公爵……俺には、それが解決になるとは思えません」
ドドンゴ令嬢とは婚約しているかもしれない。だが、それ以上は願い下げだとは、立場上言えないのだ。
「では、どうするのだ? キャサリンの婚約者として、どうするのだ?」
「キャサリンに仕えていたファニーはどうしていますか?」
「いや、知らん。それは誰のことだ?」
ソマーレス公爵の態度に、偽りは感じなかった。
本当に、ファニーが誰なのかわからないのだ。
自分の令嬢のことしか見えていない。あるいは、奴隷身分の少女など、気にかける必要もないのだろうか。
「すぐに婚姻することが正しいとは思えませんが……ドドンゴ令嬢に会ってみます」
「おおっ! わかった。では、戻って準備をしておこう。キャサリンも楽しみにしているだろう」
ソマーレス公爵は、俺の手を握って駆け足で出ていった。
人形のように動かなかったアデルが肩をすくめた。
「本当に行くのかい? 行った途端に、結婚させられるんじゃないか?」
「なんとか回避するよ。それより、ドドンゴ令嬢をこのままにはできないだろう。ファニーのことも気がかりだ。公爵は気づいていないだけで、ドドンゴじゃなくてファニーに魔王が憑依しているかもしれない」
「わかったよ。あたしには……カロンを婿にするための罠に見えるけどね」
「まさか、公爵までぐるだというのか?」
「ああ。そうとしか見えないよ」
アデルの見立ては、俺よりも正確だ。
俺は小さく頷きながら、今日出かけるための支度を始めるしかないことを思い出した。