182 ただ、スペルミスを正した
アデルのスキルで、敵対する魔物を避けることはできる。だが、接近する敵を見つけることはできない。
もっとも、人間を敵として認識できるかは不明だ。
俺は、通路の先に現れたドドンゴ公爵令嬢から、フラウとアデルを隠すように前に出た。
「キャサリン、こんな時間にどうしたんですか? 睡眠不足は美容の敵ですよ」
「まあ、カロン殿下は紳士でいらっしゃいますのね。でも、私の心配をしていただく前に、我が家の地下牢にいることの弁明はなさいませんの?」
ドドンゴ令嬢はゆっくりと近づいてくる。
大きく、横に広がった顔が光を反射させた。
「さ、騒ぎがあったようだから、駆けつけたんだ。そうしたら、さすがは公爵家の敷地は広くて、迷ってしまった」
「魔法での原因不明の爆発は……魔王の軍勢と誰かが戦っている間、しばしば目撃されているわ。てっきり、勇者様のお力かと思っていたわ。だって、爆発は狙ったように魔物だけを巻き込んでいるから」
「カロン、ばれているぞ。誤魔化すのは無理だ」
背後で、アデルが言った。
「ああ。お姉ちゃんに何をしたか、聞き出しておくれよ」
フラウも囁く。
「しかし……」
「後ろに、誰かいらっしゃるの?」
俺が背後に聞き耳を立てたからか、ドドンゴ令嬢は首を傾げた。
どれだけ賢かろうが、どれだけ人間離れして見えよえが、まともな戦闘経験すらない人間に過ぎない。
全てを知るはずがない。
俺は、冷や汗を流しながら言った。
「ああ。あそこにいるのは、キャサリンのお気に入りだったファニーだろう? 彼女は、何の罪を犯したんだい?」
「あらっ。まあまあ……私ったら、誤解申し上げていたようですわね。このメス奴隷が、私の大切な勇者殿下に色目を使って近づいたのかと思っていましたわ。もちろん、カロン殿下がこんな貧相な奴隷に目を向けるはずがございませんわね。こんな奴隷に会いに来たのではないのでございましょう?」
俺は、ファニーに会いに来た。
だが、それを認めれば、ファニーは今よりもさらに酷い目に合わされるのだろう。
現在の状況を確認することが必要だ。
「『異世界のたん汁』とファニーに何の関係があるんだ?」
「汚らわしい。奴隷の名を呼ぶなんて……えっ? 今、なんておっしゃいましたの?」
「『異世界のたん汁』とファニーの関係が……」
「『異世界のたん汁』ってなんですの?」
ドドンゴが首を傾げる。すでに俺の目の前にいるが、遠くで見た時より不気味になったわけではない。もともと、ずっと不気味なのだ。
フラウとアデルは、まだドドンゴに見つかっていないようだ。
「そこに書いてある。魔法陣と言いたいところだが……『異世界のたん汁』なんてものが存在するのかどうかわからないし、呼び出してどうしたいのかわからないな」
ドドンゴ令嬢は、ぐったりとしたまま動かないファニーの前に刻まれた魔法陣に目を凝らした。
「たん汁って、どの文字ですの?」
「一番上の段の、右から5番目の文字だ」
「……これ、魔王ではございませんの?」
「文字を一つひっくり返せばそうなるはずだ」
俺の目に、解説が踊っていた。普段はそこまで煩く表示されないのだ。
魔法文字に、解説機能が喜んでいるように感じる。
「さすがは勇者殿下ですわね。私も深く研究したつもりでしたが、気づきませんでしたわ。ちょっと、修正してくださる? 今、鍵を開けますわ」
「だが、それではまるで、キャサリンが魔王を召喚しようとしているようだ」
「ええ。そのための魔法陣と、生贄ですもの」
答えながら、ドドンゴ令嬢は鉄格子の鍵を開けた。
「生贄? ファニーが?」
「違いますわ。生贄は、あの箱の中です。でも、そんなことはいいじゃありませんか。まずは、文字の訂正を」
「ああ」
ドドンゴ令嬢が指差したのは、部屋の脇に置かれた直方体の石の箱だった。
そこの部分に穴が空いており、血が流れ出ている。
「獣の臓物でも入れてあるのか?」
「魔王を召喚するのに、そんなものは使いませんわ」
「魔王を召喚して、どうするつもりだ?」
「決まっているじゃありませんか。勇者殿下は、魔王がいるとなれば退治しなければ気が済まないお方ですもの。その魔王に、大切な婚約者がさらわれたとなれば、何をおいても救出なさるでしょう? そうなれば、とてもとても、固い絆で結ばれことになるでしょう」
ドドンゴ令嬢は、うっとりと夢を語るように、恐ろしい計画を口にした。
俺は、ドドンゴ令嬢と話しながら、剣を取り出して床に刻まれた魔法文字を訂正した。
魔法文字が読めるのは、この世界に転生して勇者となった恩恵だろう。事実、アデルはこの世界の文字は読めないし、獣と話をすることもできないようだ。
床は石畳だが、魔法陣が刻まれた部分は薄い木製の板を敷いてあったため、剣で簡単に訂正できた。
ドドンゴ令嬢が、大きな体で牢の中に入ってくる。
鉄格子の外で、アデルが腕をクロスして首を振っている。だが、既に手遅れだ。
「ああ……よかった。間に合ったわ。魔王を召喚するには、月が完全に隠れる新月の真夜中でなければならないとされているの。カロン殿下がいらっしゃらなければ、失敗するところでしたわ」
ドドンゴ令嬢は、魔法陣の中央に立って魔法陣を見回した。
「ちょっと待て。生贄があの箱に入っているものなら、ファニーの役目はなんだ?」
「決まっているではないですか。異世界から偉大なお方を召喚するのです。依り代となる肉体が必要でしょう。私は、この世界に降臨された魔王様にさらわれるのです。お待ちしていますよ、魔王殺しの勇者様」
「……狂ってる」
俺は、ドドンゴ令嬢が満足げに笑う姿に、寒気を覚えた。
「さあ! 異世界の魔王よ、今ここに顕現したまえ。依代としてファニーを捧げます」
「カロン、まずい」
隠れていたアデルが、飛び出して叫んだ。牢の扉は開いているが、中にいるのはドドンゴ令嬢と俺とファニーだ。
アデルが叫んだ理由ははっきりしていた。
牢の床に刻まれた魔法陣から、黒い靄が染み出していた。
この世界の魔物は、この世界固有のものだと俺は思っていた。
別の世界から召喚されるようなものではない。
だが、それをドドンゴ令嬢は破ろうとしている。
ドドンゴ令嬢は、天井を仰ぎ見るように、魔法陣の中央で仁王立ちしている。
「ビリ」
「カロン、待て!」
ドドンゴ令嬢を止めようとした俺の視界に、フラウが飛び出してきた。
発動させた魔法を牢の壁に放つ。
「フラウ、どうした? このままでは、ファニーが魔王になるんだぞ」
「それでもいいじゃないか」
「なんだって?」
俺は、耳を疑った。
「このまま、ドドンゴ令嬢の奴隷として弄ばれるよりはいい。魔王になったって、姉さんは姉さんだ。誰にも束縛されない。やっと、自由になれるんだ」
「カロン殿下、また愛人なの? お盛んね。私の夫になったら、しっかりと首輪をつけて部屋に縛り付けておかなければいけないかしら」
フラウの言葉とは無関係に、飛び出してきたフラウの姿だけを見て、ドドンゴ令嬢が笑みを見せた。
もはや、正気を保っていない。分厚く化粧を塗った唇の端から、涎が糸を引いた。
「アデル、どうすればいい? どうすれば止まる?」
「あたしが知っているはずがないだろう! 魔王が召喚されて困るなら、どうして魔法陣を直したりしたんだい!」
「本当に魔王が召喚されるなんて思わないだろう。俺はただ、スペルミスを正しただけだ!」
頼みのアデルに怒鳴られ、思わず怒鳴り返していた。
「結果を考えて行動しなよ! 魔法陣をよく見るんだ。あたしには読めなくても、カロンには読めるんだろう」
「アデルは悪魔族だろう。召喚には詳しいんじゃないのか?」
「前世の知識と混同しなさんな。悪魔族ってのは、魔物の分類のひとつで、どこにも当てはまらない奴を悪魔族って呼ぶだけだ!」
「じゃあ……」
俺は、アデルに言われたとおりに魔法陣を見つめた。
だが、すでに文字は読めない。文字を覆い尽くすほど、黒い靄が濃く、にじみ出ている。
「カロン、燃やしちまいな」
「カロン、姉さんを解放して!」
フラウの言う『解放しろ』とは、ファニーを魔王にしろということだ。
俺はフラウに言った。
「魔王になって、自由なんかあるものか。魔王に体を奪われて、ファニーの魂は消滅するんだぞ」
俺は、なんとなくのイメージで言った。
本当はどうなるのか、誰も知るはずがない。
フラウには響いたようだ。口をぱくぱくとさせて言葉を失った。
「バン、レベル2」
燃やすのは時間がかかる。俺は手っ取り早く、床を吹き飛ばした。
ドドンゴ令嬢が巻き込まれて吹き飛ぶが、死にはしないだろう。
俺はドドンゴ令嬢を放置して、壁につながれたまま顔をあげないファニーに駆け寄った。
「ファニー、ファニー!」
呼びかける。意識がない。
俺は、両手を拘束している鎖に手をかけた。
スキル、コンシンを使用するまでもなく、岩につなぎとめた鎖を引き抜いた。
両手に枷がついたまま、岩からは解放する。
ファニーは、俺の腕に倒れ込んだ。
「誰? カロンなの?」
ファニーの口が小さく動いた。
「ああ。俺だ」
「……違う。あなたは、カロンじゃない」
ファニーには、俺がカロンの肉体に入り込んだだけだとわかるのかもしれない。
だが、俺以外にカロンはいないのも事実だ。
一言漏らし、再び眠りについたファニーを抱き上げ、俺は振り向いた。
振り向き、硬直した。
俺の背後には、爆発の魔法で吹き飛んだ床と、その中央にたつドドンゴ令嬢がいた。
「私の奴隷をどこに連れて行くの? 勇者様?」
ドドンゴ令嬢がにたりと笑った。
「この子は俺が買い取る。王家として命じる」
「あら、形だけの王族に、どんな権限があるとお思いなの? 安心なさい。その子に危害は加えないわ」
「魔王にしようとしたじゃないか」
「心配ないわ。私を信じて」
ドドンゴ令嬢は、柔らかく両腕を広げて見せた。
俺は、令嬢の背後にいるアデルとフラウに視線を向けた。
アデルは愕然と口を開き、フラウは諦めたようにうなだれていた。
「この子には、幸せになってもらいたいんだ。俺と一緒でなくてもいい」
「ええ。わかっているわ」
突然柔らかい口調になったドドンゴ令嬢に、俺は半信半疑ながら、ファニーを手渡した。
公爵家を怒らせてはいけない。
魔王を召喚しようとした以上、公爵家にも負い目があるはすだ。
決定的に断絶はできないと、俺は打算的に考えていた。