181 世界を統べる、異世界のたん汁
気配を殺し、足音を消し、姿を隠す。そんなスキルは持ち合わせていない。
誰にも見られていないことを信じて、アデルと二人でとにかく走る。
「アデル、前に人がいる」
「フラウじゃないか?」
「ああ」
まっ暗な建物の陰に、細くしなやかな体を思わせる少女が立っていた。
俺とアデルに向かって、軽く指を曲げた。
手招きだと判断し、俺とアデルは立ち止まった。
「やっぱり来たね。来ると思っていたよ」
暗いため表情はわからないが、フラウの声は笑っているように聞こえた。
「『ファニーは死なない』ってことは、無事だってことじゃないんだろう?」
俺は、フラウがもたらした情報の内容を問い質した。
「ああ。死にはしない。だけど……あたしには、それ以上わからない。カロンとアデルが、本当に魔王を倒したっていうのなら、見れば何かわかるかもしれない。そう思ったんだ。あたしには、あのお嬢様が何をしようとしているのか、全くわからないんだよ」
「ファニーのところに案内してくれ」
「わかっている」
フラウは小さく頷くと、器用に屋敷の壁を登った。実に軽快だ。
「まるで泥棒だな」
「盗賊だからね」
「それもそうか」
俺の足元で口を挟むアデルに、俺は納得した。
俺が元いた世界でも、泥棒といえば身軽な印象がある。
鍛えたというより、生まれつきの性質だと思われる。
この世界の盗賊ならば、職業による恩恵もあるのだろう。
少なくとも、俺とアデルは、職業を盗賊にすれば恩恵はある。
「あたしは転職する。カロンは?」
「素の筋力で十分だ」
「だろうね。全く、勇者って奴は」
文句を言いながら、アデルは身軽に壁を登り始めた。
高レベルになるほど、一度転職すると、もう一度転職するのに時間が必要だとは、魔王を倒す直前まで知らなかったことだ。
今夜は、アデルは盗賊のままだろう。
アデルの盗賊職はレベル50ほどしかないはずだ。
戦いになればアデルを頼れない心細さを覚えながら、俺は地面を蹴った。
ただのジャンプで、フラウに追いつく。
フラウは屋根の上によじ登っていた。
「おーい、早く……カロン、いついた?」
「ジャンプした」
「……人間かい?」
「多分違うね」
呆れたフラウに答えるように、アデルが屋根の上に顔を出した。
「ファニーは、屋根裏部屋にでも監禁されているのか?」
「いや。姉さんがいるのは地下室さ。この屋敷の地下室に、見張りに気づかれないで入るには、西側から三番目の煙突から入ったほうがいいんだ」
フラウが一方向を指差した。指の向いた方向に、広い屋根の上に何本もの煙突が並んでいる。
「入ったことがあるのか?」
「出たことはあるよ」
「なるほど」
ドドンゴ公爵令嬢がファニーをどうしたいのか、見てもわからなかったとフラウは言った。
地下室にいるファニーを見たのだ。
ファニーのいる地下室から逃げた挙句、煙突から出てきたのだろう。
「煙突なら任せな。あたしが行く」
アデルが、フラウの指差した先に率先して歩いて行く。
「任せろって、どういう意味?」
「アデルの体は鉛でできている。燃えている暖炉の上に落ちても火傷もしないだろう」
「そりゃ凄い……って、アデルこそ、人間じゃないじゃない」
「なんだと思ったんだい? あたしは、悪魔族だよ」
歩きながら、アデルが振り返る。笑っているのかもしれないが、暗い上にアデルの肌は真っ黒いため、表情は全く見えない。
「どっちにしても、その煙突の下には暖炉なんてないけどね。使わなくなったんだろう。石で埋められている」
「なおさら好都合だよ」
「アデルならそうだろうな」
俺も同意した。
アデルが、指示された煙突に飛び込んだ。
「凄い。なんの準備もなく飛び込んだ。真っ逆さまじゃないの?」
「もちろんそうだ。アデルは平気だろうが、騒音がするだろう。人が集まってくる前に移動したい。俺も行く。フラウもすぐに来い」
「命令しないでよ。でも、飛び込むなんて……」
「受け止めるよ」
俺は言うと、アデルが飛び込んだ煙突に入った。
下から、轟音が響いてくる。
アデルが落下し、暖炉を埋めているという石に激突したのだろう。
俺も落下した。
足から落ちた。
「痛い。カロンに踏まれた」
「アデルが痛いはずがないだろう」
「カロン!」
アデルに答えていると、上から声が響いた。
フラッシュのスキルを使用し、一瞬だけ明かりを灯す。継続した明かりは灯せないが、目くらまし用の光だけは発生させられる。
一瞬だけ光り、飛び込んでくるフラウの位置を確認した。
手を伸ばす。
空中で、フラウの体を抱きとめた。
フラウの体は軽かったが、勢いに押されて尻餅を付き、アデルが呻いた。
爆発の魔法「バン」を使用するまでもなく、フラウを受け止めた衝撃で、アデルが封鎖された暖炉から飛び出した。
暖炉だとわかったのは、俺がフラウを抱いたまま後に続くと、そこは使用されていない、殺風景だが居住用の部屋だったからだ。
振り返ると、意図的に破壊された暖炉の残骸がある。
「地下牢の看守用の部屋じゃないかな」
フラウが俺の腕から降りながら言った。
「地下牢がなんであるんだ? 王の城ならともかく、貴族だからって、勝手に監禁なんかできないだろう」
「どうしてあるのかは知らないけど、あるんだから、作ったんだろう。罪人を閉じ込めるためじゃなければ、お金をしまうためかもね。私は、逃げる時にそこの暖炉から登ったんだ。だから、ここに繋がっているのを知っていたんだ」
「フラウは、ドドンゴ令嬢に雇われていたんじゃないのか? どうして逃げることになった?」
「あのご令嬢は、見た目はともかく切れ者だ。私のこと、一目で見破って、それでもわざと雇ったんだ。それも、目的があってのことさ」
「……目的って?」
「私は姉さんを探すために、この屋敷に雇われようとした。でも、令嬢が雇ったのには、別の理由があったんだ。姉さんを助けに行ったけど……私には、何がどうなっているのかわからなかった。ただ、殺されそうになったことしかわからない。だから、二人が来るのを待っていたんだ」
「わかった。ファニーのところに案内してくれ」
フラウは頷くと、現在は使用されていない看守用の部屋を出た。
「アデル、今の職業は盗賊だろう。敵がいたらわかるか?」
「そんな便利なスキルがないことは、カロンも知っているだろう。敵に見つかりにくいシノビアシってスキルはあるから、使っておくよ。でも、あくまでも見つかりにくいだけだ。エンカウントはランダムだからね」
「アデル、何を言っているの?」
「カロンとの秘密だよ」
アデルの使用した言葉が理解できなかったフラウが尋ねるが、アデルは小さな肩をすくめた。
※
ほとんど使用されていない。
地下牢は誰もいない鉄格子が並んでいた。
フラウは流石に本職の盗賊らしく、迷うことなく進んでいく。
地下牢といえばダンジョンの語源だが、俺がこれまで攻略してきたダンジョンと違って魔物も出ない。
壁に掛けられていた使いかけの松明に魔法「ボヤ」で火を灯し、フラウに渡した。
俺が帰り道はもはやわからなくなった頃、フラウが足を止めた。
「ここだよ」
無数にある地下牢の一つで、他と同じように鉄格子がはまっている。
鉄格子は一面だけで、他の壁は削られたばかりのように激しい凹凸のある石の壁だった。
石の壁に鎖でつながれ、ぐったりとうなだれているのは、俺が見たことのある茶色い髪を長く伸ばした女性だった。
姿勢は膝をついて座っているが、両手首に枷がつけられ、左右に広げて吊られている。
意識がないようで、うなだれたまま反応がない。
「ファニーか?」
「カロン、あれ、まずいんじゃないか?」
アデルが指摘した。何を指摘されたのか、俺にはわからなかった。
「死んでいるってことか?」
「お姉ちゃんが死ぬはずがないだろ」
「違う。フラウ、あんたがわからないって言ったのは、あれだろう?」
アデルは、壁につながれたファニーの前にある、丸い模様を指差していた。
「カロン、明かりを出すよ」
「ああ」
小さな松明だけでははっきりと見えない。アデルがアイテムボックスからランプを取り出すと、フラウが目を丸くした。
アイテムボックスの存在を知らなかったのだろうが、説明している暇も、隠している余裕もない。
俺は、アデルが取り出したランプに「ボヤ」で火をつけ、高く掲げた。
アデルが指差した床の模様は、描かれているのではない。
石を堀り、溝をつけてある。
ただし、色が黒い。
黒い色は、血によるものだという印象を受けた。
この世界で、血はもはや見慣れたものだ。
再びファニーに目を向けるが、ファニーが血を流しているわけではなかった。
俺は、牢の中を見回した。
同じ部屋の中に、石造りの四角い箱が二つあり、石の箱には小さな穴が空いている。
少しずつ流れ出た血が、ファニーの前に刻まれた模様に流れ込んでいるのだ。
丸い模様の中に、細かな文字がびっしりと刻まれている。俺は、模様の中の文字を指差した。
「アデル、何かわかるか?」
「あたしには、この世界の文字は読めない。フラウが読めないなら、普通の文字じゃない。カロンなら読めるんじゃないか?」
「全ては読めない。文字が間違っていて、そもそも意味を成していないのかもしれない。だが……何かを呼び出そうとしているみたいだ」
「召喚の魔法陣ってことかね。例えば……なんだい?」
「『世界を統べる、異世界のたん汁』って文字があるな。なんだ、
あれ? 俺は、文字そのものはわからない。『たん汁』って、『魔王』とかと綴りが近いのか?」
「私も知らない文字だから、わからないけど……じゃあ、『魔王』みたいなものを召喚しようとしているんだよ」
フラウが緊張した声を出す。
「魔王を召喚する? 誰が? 何のために?」
俺が尋ねると、暗闇に乾いた音が鳴り響いた。
「誰だ?」
「来ると思っていたわ。だって、カロン殿下は、勇者ですもの」
暗い通路の先に浮び上ったのは、巨大なスライムのような容貌をしたソマーレス公爵令嬢ドドンゴだった。