180 犬なんて、殴らなくてもいける
俺は、日暮れまでの記憶を失った。
気絶していたわけではない。
自分の意地で動き、話していた。
だが、何をしていたのか、思い出せなかった。
王城の自分の部屋に戻り、アデルが珍しく俺を労った。
「あの令嬢のくだらない話に、よく付き合ったね。ご苦労さん」
俺が無理やり着ている窮屈な衣服を剥ぎ取りながら、アデルが言った。
「ああ……俺は、ちゃんとできていたのか?」
「見事なものだったさ。あたしなら、トイレに行くふりをして、二度と戻らないね」
「……そうか。フラウは、あの後どうしたかな? 俺たちにデザートを持ってきた後だけど」
俺が、盗賊であり俺が宿る前のカロン少年の昔馴染みである少女の名を出すと、アデルは口ごもった。
「何か知っているのか?」
俺が問いただすと、アデルは真っ黒い顔を縦に動かした。
「あの後、あたしの頭に小石が投げつけられた。手紙に包まれたね」
「よく、ドドンゴに気づかれなかったな」
俺は気づかなかっただろう。現在でも意識が朦朧としているほどだ。
「手紙を投げつけられたのがあたしでなければ、血だらけになっているところだ。あたしの髪に刺さって、地面にも落ちなかったからね。いい腕をしているよ」
「人間の腕を褒めるのは珍しいな」
「ほれっ。これだよ」
アデルは、服の内側から丸めた葉っぱを取り出した。
大きな葉っぱで、丸まっているのは、中に石が入っているのだ。
俺が受け取った葉っぱを広げると、黒い染みが広がっていた。
「……秘密の手紙か?」
「いや。丸めている間に、葉から水分が出て掠れたんだ。時間がなかったんだろう。仕方ないさ」
「でも、これじゃ読めないぞ」
「それを手紙だと知っていたあたしが、内容を知らないはずがないだろう」
アデルは当然のことのように言った。
だが、確かに丸めた葉っぱが手紙であると知っている以上、中身を見ているはずだ。
「なんと書いてあった?」
「ファニーは殺されない。そう書いてあったよ。それ以上は書けなかったんだろう。フラウだって、まともな教育は受けていないんだろう。汚い文字だったよ」
「ああ……字が汚いか綺麗か、アデルにわかるのか?」
「あたしは、この世界の文字は覚えた。カロンほど、恵まれていないからね」
アデルは歯を見せた。笑っているが、多分嫌味だ。
俺は、この世界に来てすぐにこの世界のあらゆる言葉と文字を読むことができた。
アデルはそうではなかったのだろう。
他に会った、異世界から転生した者たちにも聞いたことがある。
この世界に来て、人間の言語は理解できたものの、人間以外と話すことはできなかったらしい。文字も理解できない。
アデルは、この世界に来て2年間はカマキリだった。
この世界で生き抜くために、苦労しているのだ。
「ファニーは殺されないか……その理由がわからない限り、安心はできないな。それに、ファニーが殺されなければいいというものじゃない。俺は、ファニーに幸せになって欲しいんだ」
「覚えてもいないくせに」
アデルの言葉が俺に突き刺さる。
俺は、アデルのことも忘れてしまった。アデルのことは、俺のことを見捨てなかったアデル本人から聞いたことしか知らない。
だが、アデルとはこうして長い付き合いになった。
忘れたとしても、また思い出をつくればいい。
「フラウやアデルの苦労を、無駄にはできないだろう」
「まあ、そういうことにしておいてやるよ。それでカロン、どうする?」
「フラウがファニーに会えたなら、俺たちが会えないことはないだろう。何しろ、魔王を倒した勇者だ」
「だいぶ、あたしたちとフラウじゃ、特性が違うとは思うけど……まあ、死にはしないか」
アデルに頷き返し、俺はアデルと共に王城を抜け出した。
※
与えられた窮屈な服を脱ぎ、アイテムボックスから直接、かつて着ていた旅装に着替えた。
ケンとキサラは部屋に置いてきた。
アデルと並走すると、ソマーリス公爵邸はごく近くだった。
「馬車で行くより、走った方が速かったんだな」
俺が呟くと、アデルが小さな肩をすくめた。
「そりゃそうだろう。カロン、急いで行きたいのかい?」
「なるほど……普段はお断りだな」
「そうだろ」
アデルが笑った時、俺たちは公爵邸の外縁にたどり着いた。
「どうやって入る?」
「深夜に押しかけるんだ。カロンなら歓迎されるさ」
「歓迎されたくはないな。少し手荒く行くか。ファニーはどの辺りだと思う?」
「広すぎてわからないよ。カロンの方が、あちこち見ているだろう?」
「俺だって、ほとんど庭園にしか案内されていない。建物の構造はわからない」
俺が言うと、アデルはアイテムボックスから粗末な布袋を取り出した。
「なら、手当たり次第しかないね。正体がばれなきゃいいだろう」
「わかった」
アデルに渡された粗末な布袋を頭から被る。
アデル自身も布袋を被った。
「アデル、職業は?」
「戦士レベル99だよ。カロンは勇者だろう?」
「ああ。じゃあ、やるぞ」
「あれ、離れたところにできるのかい?」
「そうでなきゃ、自分も吹き飛ぶだろう」
「ああ……なるほど」
「バン、レベル3」
俺が魔法を放出すると、ソマーレス公爵邸の一角で爆発が生じた。
それほど大きな爆発ではないが、部屋一つが吹き飛ぶ程度の爆発ではある。
離れた屋敷で爆発を起こさせ、俺とアデルは生垣を越えた。
視線の先で、次々に明かりが灯っている。
犬が吠えながら、俺とアデルに気づいた。
「伏せ」
生粋のテイマーであるアデルが命じると、どう猛な犬たちが押しつぶされるかのように這いつくばった。
「行くよ」
「凄いな。アデル」
「魔獣使いだ。犬なんて、殴らなくてもいけるよ」
アデルは笑っているのだろうが、布袋で顔は見えない。
俺とアデルは、人が集まっている場所を避けながら、闇に紛れて本宅に近づいた。