178 心配しなさんな。忘れてもいないよ
俺は、深夜に俺の自室を訪れたフラウに問いただされていた。
フラウのことは覚えていた。
以前、剣闘奴隷をしていた俺のところに忍び込んできた。
仲間にならないかと誘われた気もするが、当時は断った。理由は覚えていない。
「フラウに姉? それは、俺が覚えているはずの人なのか?」
俺を睨みつけていたフラウの表情が、ますます険しくなる。
「私は、お姉ちゃんを自由にするために、手段を問わずにお金を集めた。カロンに協力してもらおうかと思ったけど、カロンはお金持ちになってお姉ちゃんを堂々と迎え入れるんだって言って、私の誘いを断った。カロンの気持ちはわかるし、嬉しかったから……私は引き下がった。カロンは今、王子なんだろう? お金なんてどうでもいい。そんな立場になって、お姉ちゃんをどうして迎えに行かないんだよ」
「そのフラウの姉が……公爵令嬢ドドンゴの侍女なのか?」
「本当に、覚えていないのかい?」
「……ああ」
俺が答えると同時に、俺の頬が叩かれた。
フラウの腕の動きははっきりと見て取れたが、俺は避けも防ぎもしなかった。
「この人でなし!」
フラウが背を向けた。
去ろうとする。俺には言葉がなかった。
だが、フラウは去らなかった。
俺に背中を向けて一歩踏み出したところで、盛大に転倒したのだ。
「痛っ! こんなところに、置物が……」
「置物じゃない」
立ち上がってもあまり身長は変わらない。
暗い中に、アデルがうずくまっていたのだ。
「ひっ……何? これ?」
「ご挨拶だね。あたしのことはいいんだ。あんた、昔のカロンを知っているのかい? この国で、剣闘奴隷になる前のカロンを」
「知っているよ。誰よりも賢くて、体が弱い……奴隷としては役に立たないだろうって、買い取り手がつかなかったカロンなら」
「カロンって、そういう感じなのかい。カロンにとって、ファニーって娘が全てだった。全て、ファニーって娘を自由にするために行動していた」
「だったら、なぜ!」
「記憶を失った。詳しくは、あたしもわからない。だけどカロンは、命を失うような危機から抜け出した時、過去の記憶をすっぽりとなくすことがある。とても大切な記憶から無くしていく……あたしと好き合ったこともね」
アデルの言葉に、フラウが俺をにらむ。
「アデル、余計なことを言うな」
「カロンは覚えていないんだろう。あんなに激しく愛し合ったっていうのに……」
「お、覚えていない」
「心配しなさんな。忘れてもいないよ」
つまり、そんな事実はなかったということだ。
「アデル!」
「冗談だよ。だけど、あたしと会ったばかりの頃のこと、忘れたのは本当のことだ。最初に忘れたのは、ずっと大切にしてきた、幼馴染の女の子の記憶さ。その時には、もう別の女にも惹かれていた。長い旅をしたんだ。女の何人かはできたさ。もし、そっちの女といい関係になっていなければ、その段階で旅をやめていただろう。つまり、魔王を倒すこともなかったはずさ」
「……だから、男なんて信用できないんだ」
フラウが吐き捨てた。俺は、獣人の娘ドディアのことを忘れていない。
次の機会があれば、次に忘れるのはドディアの記憶かもしれない。
「まあ、それはそうだ」
アデルはフラウに同意した。
「否定してくれないんだな」
「自業自得だ。多分、としか言えないが……なにかの呪いだろう。だから、カロンを責めるなって言うつもりはない。責めてくれていい。でも、教えてやっておくれよ。カロンにとって、ファニーがどんな存在で、今、あの子がどうしているのかをさ。あたしじゃダメなんだ。カロンと会ってから、時々ファニーのことを聞いただけで、詳しくは知らない」
フラウは、再び俺を見た。睨みつけるような視線から、すがるような目つきに変わっていた。
「……助けて欲しい。そのために来たんだ」
「わかった」
詳しい事情を聞く前に、俺は助けることに決めていた。
※
すぐに出かけようとした俺を、フラウが止めた。
「すぐに行く気なのかい? ダメだよ。お姉ちゃんに、すぐに何かあるわけじゃない。お姉ちゃんは、きちんとお化粧させてドレスを着させたら、すごい美人になんだ。あの令嬢も、そのことは認めている。お姉ちゃんに危険はないよ。目立つ傷なんかつけたら、利用できなくなるからね。今も、地下室に監禁されているだけだ。だけど……最近、お姉ちゃんの様子が変なんだ。思いつめたみたいになって……夜になると、ずっと声を殺して泣いている。カロンが押しかけたら、逆効果かもしれない」
フラウの言葉に、俺は頷いた。だが、アデルの意見は違った。
「その子、奴隷として買われていったんだろう? 奴隷としては落ちこぼれだったカロンとは違って、高値で売れたって聞いた。記憶を失う前のカロンにね」
「うん」
フラウが素直に応じた。俺に対する態度より殊勝に見えるのは、この際黙っておく。アデルは続けた。
「ずっと……諦めていたはずだ。一生奴隷で終わるってね。幼馴染のカロンが、迎えに来てくれることなんかない。白馬の王子様になるまえに、飢え死にしているのが落ちだ。だけど……その夢が現実になって、目の前に現れた。死んだと諦めていた幼馴染が、本物の王子様になった。しかも、魔王を倒した英雄だ」
「そうだね」
応じたのはフラウだ。
「でも、当の王子様は、自分のことを覚えていない。一度は希望を持ったかもしれない。いや、間違いなく希望を持ったね。その男が、裏切ったんだ。もう……死んでもいいやって気分にもなるだろう」
「……うん」
「どうして、二人して俺を睨むんだ?」
「あんたが最低だから」
フラウが指をつきつける。
「全て、アデルの推測だろう」
「間違っていると思うかい?」
「ううん」
アデルに問われ、フラウが首を振る。
「だったら、すぐに助けに行こう」
「どうやって?」
「どうやってって……正面から入って、キャサリンをぶちのめして地下牢から連れ出す」
アデルに問われ、俺は考えを披露した。
フラウの舌打ちが耳に痛い。
「婚約は破棄され、ゼージア王国は財政破綻する」
「……国が、破綻するか?」
「カロンは独裁者として恐怖政治を行うか、クーデターが起きて転覆する。ソマーレス公爵家が新しく王になり、ドドンゴ公爵令嬢が女王となって支配する。うん……ドドンゴ公爵令嬢、ここまで狙ってファニーって子を奴隷にしているとしたら、とんでもない策士だね」
アデルは深読みのしすぎではないかと思うが、俺には否定できる根拠はなかった。
「でも、ファニーは幸せになる」
「ドドンゴ女王誕生の前に、お姉ちゃんなら自殺するね」
「それでは……ダメだな」
フラウの言葉に、俺は肩を落とした。
「じゃあ、どうすればいい?」
迷った挙句に尋ねた俺に、フラウは顔をあげた。
「カロンは、お姉ちゃんを覚えていないんだろう。でも、カロンにとってファニーお姉ちゃんは大切な人だったし、助けてくれる。それは、信じていいんだね」
「ああ。ファニーは……覚えていないが、幸せにならなくちゃいけない気がする」
「なら、時間をおくれ。3日後にもう一度来る」
「わかった。その間、俺はどうしていればいい?」
俺は真剣な表情のつもりで頷いた。
フラウは少し考え、口を開いた。
「ドドンゴ公爵令嬢に、カロンはあの令嬢を愛していると信じ込ませるんだ。ファニーが逃げても、カロンとドドンゴがうまくいっていれば、探さないだろう」
「……ファニーが幸せになるのに、俺は必要ないってことか?」
「まずは、自由にすることが専決だ。だろう?」
「そのとおり。さすがアデルちゃん」
フラウは、アデルに向かって親指を立てた。
どうやら、俺が知らない間に友情が結ばれていたらしい。