177 不幸になるためさ
俺は、直近の記憶の大半を失っているのではないかと疑った。
何しろ、キャサリンことドドンゴ公爵令嬢との会話のほとんどを覚えていないのだ。
これまでに何度かあった、記憶を部分的に喪失する事態になったのではないかと疑ったが、アデルは否定した。
帰りの馬車の中で、アデルがよくやったと褒めてくれたので、きっと間違ったことはしていないのだろう。
王城に帰り着き、王家付きの宰相ソレナンが労ってくれた。
「無事、婚約は成立したようですな」
俺の部屋に入り、なぜか一緒に部屋に来たソレナンが言った。
「……婚約だと? 誰のだ?」
「カロンと、カビの生えた大福のさ」
アデルの言葉は残酷だった。
だが、アデルの例えは的確だったのだろう。俺は、誰と婚約したのか、はっきりと理解した。
「成立した? どうして? 俺は……何も……」
「カロン殿下が暴れれば、公爵邸は跡形もありますまい。かといって、婚約を成立させずにドドンゴ様がカロン殿下を帰すはずがございません。事件にならずにお戻りになったのです。婚約は成立ですよ」
宰相ソレナンは、全く表情を動かさずに告げた。
かつては婚約の話に同情的だった男だが、下手に同情しないことにしたのだろうか。
「アデル……そうなのか?」
「貴族の文化は、あたしにはわからないよ。でも、婚約の話は出なかったんじゃないかね。いつ、そんなことを話した?」
「……そうだよな。俺は何も言っていないし、キャサリンも言わなかったはずだ」
「ドドンゴ令嬢を隠し名で呼ぶとは、よほどお気に召したのですね。ようございました」
俺は、ソレナンを睨んだ。
「お気に召したというのは、キャサリンが……俺をか?」
「いえ。ドドンゴ令嬢がカロン殿下をお好きなのは、初めからわかっておりました。カロン殿下、回避はできないのです。お覚悟を」
「……アデル……」
「泣いたってダメだろう」
「この国が潤うほどの富を稼げばいいのか?」
「諦めな。ダンジョンをどれだけ攻略しようと、国家の財源を賄えるほどの宝は出てこない。出てきた宝を買い上げるのも、人間だってことを忘れなさんな」
「俺は……なんのために魔王を倒したんだ……」
「不幸になるためさ」
アデルはむっつりと言った。人間の体に転移した俺を羨んでいるのだろうか。
宰相ソレナンは、俺に祝いの言葉を投げかけて出て行った。
俺には、呪いのようにしか聞こえなかった。
「……アデル、俺はどうすればいい?」
「あたしに聞きなさんな。でも……まじめに金を稼ぐ方法を考えるなら、得意なのはあたしじゃない」
アデルが言うと、ベッドの下から茶トラの猫であるケンが、シャンデリアからネズミのキサラが顔を出した。
「経営の勉強をはじめようとしていた俺やキサラに、何を期待しているんだ」
「そう? 国家財政を潤わせる方法を考えるなんて、ちょっと面白そうじゃない?」
ケンとキサラで意見が割れた。
「そのことは、おいおい考えるさ。でも、まずはカロン、問題はあんただよ」
「……俺が?」
「奴隷のファニー、放っておいていいのかい? このままだと、殺されはしないまでも、生皮を剥がされるぐらいのことはされかねないよ」
「可哀想だとは思うが……俺にはどうにもできないだろう?」
「そう思うなら、泣きなさんな」
「泣く? 俺が?」
「カロン、冷たい」
俺の足元で、ケンが抗議した。
俺は、左目だけで泣いていたのだ。
俺自身は気づかなかった。その理由も分からず、俺は儀礼用に仕立てられた窮屈な服を脱いだ。
※
キャサリンこと、ドドンゴ公爵令嬢との会談から数日後、俺は正式に婚約が成立しているという事実に愕然とした。
俺には認識も記憶もなかった。
だが、貴族の社会では婚約が成立したものとされるらしい。
その間にも、俺はアデル、ケンとキサラの協力を得て、公爵家に頼らずに国家財政を立て直す方法を研究したが、この国の宰相たちも決して愚かだったわけではないと確認することになった。
誰も怠けていたわけではない。
魔王が世界のほぼ半分を制圧した世界で、人間の国は存在し続けるだけでも大変だったのだ。
「商人は潤っているね。商人の借金を踏み倒す勅令を出したらどうだい?」
アデルが言った。俺は、聞いた話を語った。
「そう考えた国が、少なくとも3つは滅んでいるらしい。商人を敵に回すと、国家でも転覆するんだろうな」
「……カロン、キャサリンと結婚するのが、一番早いよ」
ケンが言うと、キサラがネズミ仕様の小さな手で、俺の手を慰めるように叩いた。
解決策が見出せないまま、夜も寝付けない日々が続いた。
そんな晩のことだった。
俺は、枕元にネコとネズミ、床の上にアデルの寝息を聴きながら、窓から入る月光を眺めていた。
時間はわからない。
深夜から未明にかけての、真夜中の頃だ。
床に落ちてアデルを照らす空の光が途切れた。
曇って来たのだろうかと、俺は気にしなかった。
だが、何気なく見た窓に、人型の影を見つけた。
窓には安全のために鉄格子がはめられている。
窓に出現した影は、鉄格子を掴んで試していた。
王家の王子を守る鉄の棒である。
鉄格子はびくともしない。
「俺に用なのか? それとも、ただの泥棒か?」
「カロンかい?」
俺を呼ぶ声に、俺は記憶を呼び起こされた。
かつて俺がこの国にいたのは、この世界に来たばかりの頃だ。
はるか昔のことのように思えるが、実際にはほんの数年前だ。
俺は、眠ることもなくただ横になっていたベッドから起き上がった。
「フラッシュライト」
俺は、爆発的な光は生み出さないが光源として利用できる魔法を使用した。
戦闘系にばかり特化した俺の魔法の中で、数少ない生活に使用できる魔法である。
窓の鉄格子を掴んでいたのは、まだ少女ではあっても、俺の記憶より身長も肉付きもよくなった綺麗な娘だった。
「その光、消してよ。私が侵入したのがばれる」
「ああ。済まない。誰かと思ったんだ。久しぶりだね、フラウ」
俺が闘技場の剣闘奴隷として認められ出した時、訪問して来たことがあった。
「驚いた。本当にカロンなんだ」
「ああ。まさか、国王の落とし胤だとは思わなかっただろう? 俺も、知らなかった」
「うん。それもそうだけど……私のこと、覚えているんだ」
「ああ。そんなところじゃ話もできない。ちょうど、眠れなかったんだ。中に入りなよ」
「この鉄格子、どうにかできるの?」
「ああ」
俺は、頭上に手を伸ばしたところにある、窓の鉄格子を掴んだ。
スキル、コンシンを使用する。
レベルが上がり、コンシンの威力も上がっている。もともとのステータスも以前とは桁違いだ。
鉄格子が嵌っていた岩壁ごと毟り取れた。
「……呆れた。すごい力だ。魔王を倒したのがカロンだって、本当なの?」
「そうだね」
鉄格子を二本外すと、隙間からフラウが入ってきた。
すらりとした肢体を持ちながら、しっかりと肉がついた、魅力的な女性に育ちつつあった。
「確か……盗賊だったね。指名手配されているのかい?」
「……うん。まあね。でも、カロンは私を捕まえようとはしないだろう?」
フラウは俺の部屋を見回し、床の上で寝ているアデルを覗き込んだ。
だが、アデルもレベルカンストの僧侶兼戦士だ。
突然目を開けたアデルは、面白いものを覗き込んでいたつもりのフラウの手を掴んだ。
「ちょっ、痛い!」
「……誰だい? カロン、逢引きかい?」
「アデル、離してやってくれ。昔の知り合いだ。盗賊らしい。敵意はないよ」
「どうだかね」
アデルは手を離した。捕まれた腕をさするフラウの腕には、はっきりと小さな痣ができていた。アデルとしては、力を入れたつもりはなかったはずだ。
アデルが本気で握れば、フラウの腕は千切れていたところだ。
「フラウ、俺に会いにきたのは、噂を確かめたかったのかい? それとも……困りごとか?」
「私のことは覚えているのに? お姉ちゃんのこと、どうして覚えていないんだよ」
フラウは、俺を睨みつけた。