176 キャサリンと呼んで
公爵は俺とドドンゴ令嬢を庭園に案内してから、気を利かせて退席した。
お付きの従者であるアデルと痩身の女性も、会話が聞こえない位置にまで下がっている。
よく手入れされたバラの花に囲まれ、御影石のテーブルと白い椅子に腰掛けた。
痩身の女性が用意してくれたお茶のセットが、カップの中で湯気を上げている。
俺は、近い将来俺の妻となる女性と向き合った。
下膨れの顔がだらしなく膨らんだ輪郭が、ぶよぶよと揺れている。
カップに伸ばした指は芋虫を想起させ、小さな目を大きく見せようと努力した化粧が痛々しい。
「俺のこと、覚えていますか?」
俺は、魔王の手がかりを探している時に、魔物に襲われた商隊を助けた。
その中に、俺の目の前の太った女がいた。当初から、お嬢様と呼ばれていたはずだ。
「もちろんよ。命の恩人ですもの。忘れたことはなかったわ」
にたりと笑う口元に、俺は悪寒を感じた。
「では……この国の貴族の地位を買ったのは、俺のためですか?」
「まさか。偶然よ。いくら私でも、私のパパでも、そこまで考えて行動できるわけではないわ。ただ、パパが貴族の地位を買った国に、ゴブリン王と呼ばれた剣闘士がいて、私を助けてくれた冒険者風の殿方は、オークと話をしていた。ひょっとしたらって……思っても不思議はありませんでしょう?」
「ああ。そうかもな。ところで、あの子は……」
ドドンゴ令嬢の不興を買うわけにはいかない。それはわかっていた。
だが、どうしても気になった。
目鼻立ちは整っているが、骨と皮ばかりに見える少女は、健康的とは言えない痩せ方をしている。
食事を満足に与えられていないか、病気なのではないかと思えたのだ。
「私以外の女の話はしないで」
打って変わり、刺々しい言い方で俺を叱責した。
「しかし、俺の従者のアデルも女だ」
「では、首にして。新しい従者なら、私が手配するわ」
俺は、アデルに視線を向けようとした。
振り返る前に、短い指で顔をつかまれた。
「おほほほっ。なんのおつもりですの?」
俺は、俺の顔を掴むドドンゴ令嬢の手を掴んだ。
「アデルは従者だと言ったが、実際は仲間だ。首になどできない」
「なお悪いわ。どこまでの関係なの?」
「どこまでとは?」
「言わせる気?」
言いながら、ドドンゴ令嬢は小さな目を見開き、飛び出しそうな目玉を俺に向けた。
「……わかった。大切な仲間だが、お嬢様の選んだ従者がアデルより強ければ、アデルとは距離をとろう」
「ふん。まあ、それでもいいわ。それで……子どもは何人ほしいの?」
突然、表情が柔和に変わった。まるで、ナメクジを捕食しようとしているガマガエルのようだとは、俺個人の感想である。
「一人もいらないな」
思わず口を突いて出た。ドドンゴ令嬢との子どもであれば、とはあえて言わなかった。
「あらあら。子どもが苦手なのね。わかるわ。でも、自分の子どもは特別よ。特に、私との子どもであればね」
ドドンゴ令嬢は、笑みをうかべながら俺に投げキッスをした。
俺の持っていたカップの持ち手が割れた。力の加減を誤ったのだ。
「お嬢様は……」
「お嬢様だなんて、他人行儀な呼び方はやめて。それに、実態はどうあれ、公爵令嬢の私より、王子継承権第1位の殿下の方が位は高いのよ。キャサリンと呼んで」
「『キャサリン』?」
名前以外は、令嬢の言うことの方が正しいのだと認めざるを得ない。
「ええ。ドドンゴというのはお父様のつけてくれた名前で、普段はこちらで通しているわ。でも、ごく一部、本当に親しい人にだけ、キャサリンと呼ばせることにしているの」
「俺たちは、それほど親しくないだろう」
「これから親しくなるのじゃない。誰よりもね」
ドドンゴ公爵令嬢は、グフフと笑った。
「さっきの話だけど……」
俺は、ドドンゴの従者の話に戻したかった。
人間優位の世界ではない。やせ細り、飢え死にしていく人間が、もっとも豊かな国でもいくらでもいる世界である。
だから、公爵家の使用人で、しかも奴隷らしい少女がやせ細っていても、不思議なことではない。
だが、服から伸びた少女のがりがりに細い腕が、妙に頭から離れなかった。
「ええ。解っているわ……」
ドドンゴ令嬢はにっこりと手を叩いた。ほかの女性の話題は危険かと思ったが、ドドンゴは笑いながら続けた。
「最低でも、男の子と女の子一人ずつは欲しいわね。でも、病気になるかもしれないから、二人ずつぐらい必要かしら」
俺が思った話とは違った。本人の言葉とは裏腹に、ドドンゴは『解って』いなかったのだ。
だが、無理やり奴隷の少女の話題には戻せない。
ドドンゴを怒らせれば、俺や王国だけでなく、少女に最も危害が及ぶ。
「キャサリンは……」
俺は、言われた通りに名前を呼んだ。あえて呼び捨てにした。
名前を呼びながら令嬢の丸い顔を見た。令嬢はにたりと笑った。正解だったようだ。
「産んだことがあるのかい?」
「本気で聞いているのかしら?」
「……ごめん。俺は、あまり貴族のことに詳しくなくて……気分を害したなら謝る」
「いいえ。殿下の期待を裏切って悪いけど、パパ以外の殿方には触れたこともないわ。きっと、私は高嶺の花すぎるのね。そこらの貴族では釣り合わない。だから、どんな貴族の坊ちゃんでも、私には近づかないわ。おかしなことでしょう?」
「ああ……気持ちはわかる」
「そうよね」
言いながら笑う令嬢の口元から、壊死して真っ黒になった歯茎が覗く。
「公爵令嬢と釣り合うには、やはり王子ぐらいでないとね」
言ったのは、お茶を運んできたアデルだった。
背が低く、頭の上にお盆を持ち上げていた。
「そう。さすがはカロン殿下の従者、見た目は気持ち悪いけど、少しはわかっているのね。いいわ。あなたはもう少し、殿下の従者であることを認めてあげる。そのサイズじゃ、本当に浮気相手ではないのでしょうから」
「ありがとうございます」
アデルはテーブルにお茶のセットを置いた。
「ファニー、気が利かないわね。生皮を剥がされたいの?」
「申し訳ありません」
遠くから見ていた痩せた少女が走ってくる。
アデルが運んできたお茶のセットだが、テーブルの上でお茶を注ぐには、アデルは身長が低すぎた。
ファニーと呼ばれた少女がテーブルのお茶セットに手を伸ばす。
「殿下、なにをなさっているの?」
「え? 何か?」
俺は気がつかなかった。
俺の左手が、ファニーの腕を掴んでいた。俺は、自分の腕が勝手に動いたのだと理解した。
「お、おやめください。カロン殿下」
ファニーがぶるぶると震えながら言った。
「あっ、ごめん。な、なんでもない。ただ……服が汚れるのではないかと……」
「無礼者!」
ドドンゴ令嬢は叫び、ファニーの頬を張り飛ばした。
「も、申し訳ありません!」
「殿下のお召し物を汚すなんて、恥を知りなさい。殿下、すぐに死刑にいたします」
ドドンゴ令嬢は言うと、自分の手で絞め殺そうとするかのように手を伸ばした。
「待った。本当に汚れたわけじゃない。俺の早とちりだ」
俺は令嬢を押しとどめ、ファニーの手を離した。
「俺のために、この子が生皮を剥がされたり、絞め殺されたりするのは、目覚めが悪い。次に来た時も、またお茶を入れてくれることを期待します」
「……まあ、殿下がそうおっしゃるなら」
ドドンゴ令嬢は、ファニーに下がるよう告げた。