172 王位継承権の持ち主が全滅した
俺は、この世界での記憶に欠損があるらしい。
それは、一緒に魔王を打倒した仲間でるアデルに指摘された。
アデルとの付き合いは、俺が理解しているよりずっと長いのだと聞かされた。
それ以前にも、俺はこの世界の肉体の持ち主だった、カロン少年の思い出の記憶を無くしてしまっているのだと教えられたことがあった。
記憶を失うという現象は、俺が死にそうな場面を乗り越えた後に起こっているらしい。
アデルと会う前から、俺はこの世界で冒険をしていたはずだ。アデルの記憶と同時に、過去の冒険の記憶も失ってしまったようだ。実際にはどれほどの記憶が抜け落ちてしまっているのか、俺にもわからない。
ただ、俺は目の前の王を覚えていた。
ゴブリン王として闘技場で会った時には、辛辣な言葉をかけられたという印象しかなかった。
だが、俺の左手が、父親を意味する文字を震えながら書き続けていた。
俺がその文字を読み上げると、王が俺を真剣な眼差しで見つめていた。
「俺が……あんたの息子だというのかい?」
「お前の母は、王宮に仕える侍女だった。お前が生まれてしばらくして、王都から出て行った。まだ、幼かったお前を連れてな」
「どこかの貧しい村で、孤児院を経営してでもいるのか?」
俺は、カロン少年の母だと思われる女性に心当たりがあった。
だが、その女性によって、俺は奴隷として売られたのだ。
この世界にきて間もないときだった。この世界にきてすぐに、奴隷として売られたのだ。
好い印象はなかった。懐かしむほどの記憶もない。
「それは知らん。その女については探したこともない。だがお前については……剣闘士として頭角を表した時に、すぐに気づいた。どれほど喜ばしかったかしれん」
「あんた……そんな感じじゃなかっただろう」
「いや。あの時はまだ……他の子も生きていたのでな……」
王が口ごもり、背後で宰相が咳払いをした。
俺はしょぼくれた王と背後の宰相を見比べ、事情を察した。
「魔王の勢力がこの国まで伸びてきて、俺の兄弟たち……腹違いだろうが、兄弟たちが、全員死んだのか?」
「……そうだ」
王が小声で認めた。
「王の子どもでまだ生きているのは、俺だけなのか?」
「……そうだ」
「俺に、何を期待している?」
「王になることだ」
「御免被る」
「今すぐでなくてもいいのです。カロン殿下は、魔王を討伐した勇者なのでしょう。しかも、王の血を引いている。王になることに、反対する者はいません」
王の背後で控えていた宰相が、突然身を乗り出した。
王が咳払いし、宰相は乗り出していた身を引いた。
「王になることは、あらゆる平民の願いではないか。王になりたくない者など、いるはずがない。どうして拒むのだ?」
「俺は魔王を倒した。役割は果たしただろう。束縛されるのは面倒だ。これから先は、のんびり暮らしたいんだ」
「田舎でのんびりするか、王都の中央でのんびりするかの違いでしかないぞ」
「……王って、そんなんでいいのか?」
現役の王の言葉に耳を疑い、俺は王の頭ごしに宰相に尋ねた。
「概ね、間違ってはいませんね」
「この国……経営はちゃんとできているのか?」
「まあまあだ」
王が答えた。疑わしくはあったが、俺は頷く。
「一緒に旅をした仲間がいる。そいつらとも相談したい」
「悪魔族の娘と何を相談する? 悪い仲間とは、早く手を切った方がいいぞ」
「俺の仲間は、アデルだけじゃない。経営や経済の専門家もいる」
正確には、これから学ぼうとしていた者たちだ。姿はネコとネズミである。
宰相の目が光ったように感じた。
「カロン殿下は、この国をどうしようとお思いですか?」
「まだ、何も考えてはいないさ。この国について、俺は奴隷の身分からしか、見たことはなかった」
「ああ。そうだろう。余の生きている間は、お前は王太子だ。その間に学ぶといい。この国にも学者はいる。お前の言う専門家とどちらが優れているか、いずれわかるだろう」
「言っておくが、俺はまだ王太子になることも引き受けていないぞ」
「わかっておるよ」
王は和やかに口にした。その態度は、もはや俺が断るとは考えていないようだった。
王が黙ると、宰相が代わりに説明を始めた。
王には正妃に多くの子どもがいたため、庶子については当初は無視されるはずだったようだ。
俺は、たまたま王が手をつけた侍女の娘が身篭った子どもだった。俺はというより、俺が入り込んだカロンという少年は、といった方がいいだろう。
王に仕える侍女であれば、身分は貴族であるらしい。
当初、王は愛人として迎えようとしたが、当時の王妃の反対にあい、出自の貴族領に戻され、身を寄せた貴族が公金の着服を罪に問われ没落したようだ。
貴族の財産は残らなかったが、貴族が以前から経営していた孤児院に身を隠し、俺の母は孤児院の一つを経営する立場になった。
だが、人里離れた田舎で孤児院を維持することは難しく、一定の年齢に達した子どもを奴隷として売る、奴隷育成機関に変貌したらしい。
実の息子の俺まで売ったのだから、その商売も限界に来ていたのだろう。俺が剣闘士として名をあげた頃には、孤児院は魔物に襲われて壊滅していたらしい。
経営者であるカロンの母は死んだものと思われているが、俺自身は顔を覚えてもいない。
俺が闘技場の剣闘士だった頃、王は俺を見て自分の息子だと気づいたが、当時は王子が10人以上いたために身分も知らせなかったようだ。
状況が変わったのは、滅んだと思われていた魔王が再び、ネコの姿で君臨してからだ。
王子たちが次々に魔王討伐に出立し、瞬く間に全ての王子が死んだそうだ。
「10人以上いたんだろう。誰か途中で止めなかったのか?」
俺が尋ねると、宰相は辛そうに答えた。
「世界に魔王が現れた時、立ち向かわない者は王ではない。この国の伝統です」
「それで、王位継承権の持ち主が全滅したということか。それでも魔王を倒せなければ、王家なんかいらないということか?」
「ですが、魔王は倒されました。この国の王の血を引くお方によって」
宰相は俺を見つめた。王は笑う。ふひっふひっと、奇妙な笑い声をあげていた。
「伝統は守られた。ということだな?」
「その通りです。カロン殿下」
宰相は熱っぽく語る。
俺は、天井を見上げた。
そこに、なにかがあったわけではない。
「俺には10人以上の腹違いの兄弟がいたが、現在では一人っ子ということか?」
「そうじゃ」
再び王が口を開いた。
「俺に王なんて……」
「王妃は一人じゃが、腹違いの兄弟の母は8人おる。いつ魔王が現れても対抗できるように、国王には多くの子どもを為すことが求められる。此度のようにな」
「全員死んだじゃないか」
「一人残った。残った一人が、魔王から逃げ隠れていたのであれば廃嫡もしかたがない。だが、倒したのだろう? カロンが」
「……そうだな」
今更、嘘をついても仕方がない。俺は頷いた。
「正妃はもう決まっておるが、すぐに婚礼というわけではない。まずは、王国と王族のしきたりを学んでもらう」
「王妃だと?」
「うむ。ドドンゴ・フェル・ソマーレス公爵令嬢だ。これは拒めんぞ。何しろ、我が国は公爵に大金の供与を受けている」
王妃が公爵令嬢と聞き、俺は嫌な汗が吹き出すのを感じた。『ドドンゴ』という名にも聞き覚えがあった。
「ひょっとして……こういう感じか?」
俺は、テーブルの上にあった大皿に盛られた饅頭をつかみ、テーブルに置いた。
「もうご存知でしたか」
「これで伝わるご令嬢が結婚相手か……」
「カロン殿下、ご結婚は?」
「いや……していない」
「それはようございました。お諦めください」
宰相は、胸の前で両手をあわせていた。