171 余を覚えておるか?
俺がこの世界に転移してきた時、六ツ目の狼に襲われて死にかけた、カロン少年の体に入った。
カロン少年は孤児で、奴隷として売られる運命にあったが、孤児院を運営しているのが母親だったのを覚えている。
あの時はこの世界に来たばかりだったし、カロン少年の血縁関係に興味はなかった。
孤児院の責任者である女性が、本当の母親か、母親と呼んでいた他人かで事情は異なる。
思えば、剣闘士をしていた時に、一度だけこの国の王に会ったことがあった。
当時ゴブリン王として有名になっていた俺に王が興味をもったのだ。ただし、王は俺を見るなり、奴隷の身分からの解放を拒絶した。
王はカロンに優しくはなかった。だが、全く無関係の剣闘士に対するにしては、冷たすぎたのも事実だ。
「心当たりがあるのかい?」
俺は、兵士たちに守られながら、王宮の中を歩いていた。
俺に並んで歩きながら、アデルが尋ねる。
「あるはずがないだろう。全く知らなかった」
「本当かねぇ」
「それに、おかしいだろう。俺は、ずっとこの国で剣闘奴隷として生きてきたんだ。俺の父親が国王なら、どうして奴隷のままにしておいたんだ?」
「どうなんだい?」
アデルは、俺にではなく集団の一番前を歩いていた、痩せた初老の男に尋ねた。
この中で、唯一の文官だ。俺に宰相だと自己紹介したはずだ。
「この場では申し上げられません。付いてきてくだされば、すぐにわかります」
「だってさ」
俺は、アデルとアデルの頭の上にいるケン、キサラに言った。
「カロンって、金持ちってことか?」
「働く必要はないでしょうね」
ケンとキサラが独自の感想を語った。異世界で金儲けをしたいと希望しているネコとネズミには、俺は異質な存在のはずだ。
「すぐにわかるんだな?」
「はい」
宰相を名乗った男は、それ以上語らなかった。
俺を罵倒した公爵家の令嬢の太った女は、まるで地中のキノコを見つけた豚のように、まっしぐらに走っていってしまった。
「……さっきの女、どこかで見たようなきがするが……」
「この世界で太った女は珍しいからね。会っているとしたら……小さな賢者を見つけた時だろう」
「ああ……あれか」
俺は、オークの集団に襲われて豚に埋もれていた商人を助けたことがあった。
あの時、太った女がいた。
「……公爵令嬢だったか?」
「あれから、だいぶ経つからね。まだ小さな賢者として隠れていた魔王が、世界の半分を征服するし、駆け出しだった勇者がレベルカンストして紙芝居屋を始めるくらいの年月は経っているんだ。何があっても不思議じゃないさ」
「そうかもな」
俺が妙に納得して頷いた時、先頭の男が足を止めた。
その前に、大きな扉があった。
通常の人間の身長より、3倍はあろうかと思われる大きな扉は、室内ではむしろ不便だ。
「我々は、ここまでです。お供の方々もご遠慮ください」
「あたしは、カロンのおまけかい」
「別にいいだろ。カロンが上手くやれば、贅沢ができる」
むくれるアデルを、頭上のケンがなだめた。
「商人としては、堕落した考えじゃない?」
「ネコとネズミだよ。そんなに、気張らなくてもいいさ」
俺には、ケンとキサラの言葉は理解できる。だが、周囲の兵士たちには、ニャーニャー、チュウチュウと聞こえているはずだ。
俺は初老の男に促され、扉に手をかけた。
※
俺が通されたのは、豪華さを誇張するために設えられたかのような部屋だった。
部屋そのものは決して大きくはない。大きくない部屋に、ズラリと手の込んだ装飾品や用途のわからない調度品が置かれていた。
客間というものだろう。
王宮の客間としては、適切なものかどうか、俺自身は王宮に客として招かれたのは始めてだったので、わからない。
部屋の中央に低く小さなテーブルがあり、小さなテーブルを囲むように、綿で膨れ上がったソファーを配置してある。
豪華ではある。だが、品がいいとは思えない客間のソファーに、俺は腰掛けた。
綿の弾力で跳ねそうになるのは、この世界に転移して来て、はじめてのことだった。
俺を案内して来た宰相は、部屋を横切って俺の座った対面の壁に向かった。
扉を開ける。そこには、しょぼくれた男がいた。
中年から老年の域にかかろうという外見で、平均寿命が短く医療の未発達のこの世界では、高齢の部類なのだろう。
「カロンか?」
「ああ。そうだ」
「余を覚えておるか?」
宰相が開けた扉から、しょぼくれた男が尋ねながら入ってきた。
見た目はしょぼくれているが、頭には金色の金属を乗せている。
まるで、トランプのカードのような派手な衣装は、ピエロのようでもある。ただし、それが普段着なのであれば、このしょぼくれた男は王なのだろう。
「闘技場で一度……『ゴブリン王に恩赦はいらない』だったか? 言われた気がしたな」
「……他には?」
俺は、この国でゴブリン王と呼ばれ、剣闘士として戦っていたことすら、遠い記憶としてしか覚えていない。
その頃の記憶が蘇ったことすら、驚きだった。
『他には』と聞かれても、何も覚えてはいない。
「いや……何も」
「そうか」
知るはずがない。俺はそう思っていた。左手が震えた。
俺は、左手を抑えた。
「病気か?」
男に尋ねられた。目の前にいるのは、やはり王なのだろう。なぜか疲れており、自信なさげに見えるためか、心配されることすら不快だった。
「わからない。初めてのことだ」
左手の震えは止まった。俺は、左手を抑えるのをやめた。
左手が勝手に動いていた。
手の動きに、文字を書いているのだとわかった。
「……父さん?」
なんのことだと俺が訝しんだ時、目の前にいたしょぼくれた王が目を見開いた。
「カロン、やはり、覚えていたか……」
なんのことだと、俺は再び強く思ったが、涙を流したしょぼくれた王の前で、口にすることはできなかった。