170 カロン王太子殿下、お怪我はありませんか?
俺は、自分の生まれ育った国について、何も知らない。
この世界に転移したと同時に死にかけ、奴隷として売られ、剣闘士として戦い、挙句の果てに逃亡奴隷として指名手配されたのだ。
逃亡奴隷は多い。流石に、いつまでも覚えられてはいないだろうと思って帰ってきたのだ。
国の名前はゼージアといい、俺が剣闘士として戦っていたのは王都ゼンジウムというらしい。
さほど大国ではないが、堅実な中堅国と見なされているらしく、冒険者を保護することで、対魔物に対する防衛予算を削ることに成功しているのだと、アデルから聞いた。
俺は、俺が入り込んだ肉体の記憶、というより、その体に入っていた脳の記憶をほとんど見ることができないが、アデルは元々の悪魔アデルの記憶を見ることができるようだ。
悪魔族として鉛の肉体を持った者と、人間との違いなのかもしれない。
村の納屋で休んでいた俺たちを訪問し、一方的に護衛すると言い出した兵士たちのことは信用できなかったが、俺は従うことにした。
この世界では、レベルやスキルといった異世界特有の能力はない。
使えるのはこの世界に転移した者達だけで、この世界は転移してから物理的に生き残るのが難しい。何しろ、決まって死にかけの肉体に転移するからだ。つまり、魂が抜け出た肉体に入り込むということだろう。
レベル1の状態でも、鍛えればこの世界の普通の人間たちと渡り合える。
レベル99の勇者となった俺が、窮地に陥ることが想像できなかったのだ。
俺はわら山の中に沈んだアデルを掘り起こし、一緒にわらまみれになったケンとキサラを探し出した。
「これから、どこに行くんだ?」
アデルは重い。俺は、ずっしりとしたアデルの体を背負い、ケンとキサラを腕に抱えて、外で待っていた兵士に尋ねた。
以前は、アデルは警戒して夜に熟睡などしなかった。ケンもキサラも、肉体の習性か、熟睡するということはあまりなかった。
アデルはレベルが上がってから、ケンとキサラは肉体に馴染んでから、夜はぐっすりと眠る。叩き起こさないかぎり、起きることはなくなった。
「王城です」
「……俺が指名手配されていることと、関係があるのかい?」
俺は、兵士の数と立ち位置を確認しながら聞いた。兵士の数は5人、隠れている兵士はいない。
力づくで連行されることになっても、突破は可能だ。
「いえ。カロン様は、すでに指名手配されておりません。カロン様には、不逮捕特権がございます」
「不逮捕特権? 俺は、国会議員になった覚えはないが?」
「『国会議員』……とは何ですか?」
兵士には伝わらなかった。俺の前世の知識だ。困惑する兵士たちを前に、俺は首を振った。
「いや、なんでもない。他国の知識だ。俺に不逮捕特権があるとするなら、これは連行ではないんだな?」
俺は、用意された馬車を見て言った。
移動するために、俺も馬車を持っている。荷物の大半はアイテムボックスに収納してしまうため、馬車は小さい。
兵士たちが用意していたのは、よりしっかりとした、高価そうな馬車だ。乗り心地もいいのだろう。
「はい。ただ、同行に応じるまで、カロン様から離れないように言われております」
つまり、俺が無視して出奔したら、目の前にいる5人の兵士は家に帰れないということだ。
「わかった。行こう。ただし、朝まで待て。説明は後でいい。俺の連れたちは、朝までは起きない」
「承知しました。では、こちらに」
兵士は、俺のために用意されたと思われる馬車を手で示した。
俺は従わず、背負ったアデルを再びわらの中に埋めた。気が済むまで眠らせないと、寝起きは機嫌が悪いのだ。
※
アデルがわらにまみれて納屋から這い出て来るのを待ち、一緒にわらの中に沈めたケンとキサラを掘り起こし、俺はアデルに説明しながら兵士たちの用意した馬車に乗った。
「カロンは、この国じゃ札付きなんだろう? これは罠だよ」
「罠だな」
「お人好しなんだから」
俺たちしか乗っていない馬車の中で、俺の説明を聞くや、口々に非難された。
「罠でもいいだろう。竜兵でも出てこない限り、逃げるぐらいはできるさ」
「カロンが竜兵と戦ったのは、魔王討伐のために鍛え直す前のことじゃないか。今更、竜兵なんかに遅れをとるかい?」
馬車の中で揺れていても、アデルだけはどっしりと動かない。岩の塊が置いてあるようだ。俺の迂闊さを非難しても、強くなったことは認めてくれているのだ。
まるでアデルが動かない代わりのように、ネコのケンとネズミのキサラは、馬車の揺れにあわせて派手に転がっていた。
「レベルが上がって強くなっても、竜兵の強さは異常だと感じるよ。最初に戦ったのがこの国の闘技場で、まだ俺が今よりもずっと弱い時だった。トラウマになっているのかもしれないな」
「まあ、竜兵が群れで行動することはないだろうから、一人ぐらいならなんとかなるだろう」
アデルは言いながら、馬車の窓を開けた。
風が入り、遠くに見たことのある城が浮かび上がって見えた。
「来たことがある場所だな」
「カロンが剣闘士をやっていた場所だろ?」
「儲かったのか?」
ケンが前足を伸ばして外を覗き、キサラがケンの頭に登った。
「いや。剣闘士といっても、身分は奴隷だ。儲けは、興行主が全て持って行った。稼いだのは……むしろ冒険者になってからだな」
「この国で?」
キサラが尋ねる。二人とも、この世界で商人として成功することを目指している。
儲け話には目がないのだ。
「ああ。この国のダンジョンに潜った。ダンジョン内の魔物をアイテムボックスに入れると、自然と使用できる部位に解体してくれたんだ。それを売って、ようやく多少は金を稼げた。まあ……その当時の金なんて、たいした額ではないけどな」
「だけど、あたしらでもドラゴンは倒していないね。どこかにいるなら、そのうちテイムしてみたいもんだ」
「アデル、テイムしたら倒せないな」
「ああ。それもそうか」
俺たちがたわいもない話をしていると、馬車は城のある街に入っていく。
街の門の前で一度止まったが、待たされるというほどの時間もかからずに動き出した。
真っ直ぐに進む。
俺は、街のほぼ中央にある闘技場を外から眺めた。
馬車はさらに進み続け、俺たちは、城の周りに張り巡らされた堀を越えたのに気づいた。
「カロン、俺たち、城に入るのか?」
「そうみたいだな」
「このまま、捕まるんじゃないだろうね」
アデルは、初めから罠だと断定していた。
真っ直ぐに城に入るのは、どう考えてもおかしい。
ついに、俺も同意した。
「逃げるか?」
「その方がいいかもね」
ケンの頭の上で、キサラも頷いた。
「よし、行こう」
荷物はない。俺は、馬車の扉を蹴飛ばした。
「キャアアァァァァ!」
俺が蹴り開けた扉に弾かれて、丸い肉の塊が転がった。
「カロン、あんたの力は異常なんだ。気をつけな!」
「アデルも、大して変わらないだろう」
「あたしは気をつけているよ」
先にアデルが飛び出した。
ケンとキサラが続く。
俺が最後に馬車から飛び出すと、扉に弾き飛ばされた太った女がむくりと顔をあげた。
「この公爵令嬢ドドンゴ様に向かって、何という無礼! 首を跳ねなさい!」
無茶を言う太った令嬢に横から大声を張り上げたのは、歳を重ねた紳士だった。
「お待ちしておりました。カロン王太子殿下、お怪我はありませんか?」
「カロン王太子殿下?」
アデルとケン、キサラに加えて、叫んだドドンゴ公爵令嬢の声までが重なって響き渡った。