133 ここから先は、完全に氷の女王の縄張りだ
俺は眠い目を擦り、焚き火にあたりに来た老婆に魔物の肉を渡した。
アイテムボックスから出した、生焼けの肉だ。
老婆は嬉しそうに受け取ると、歯が無いかのようによれた口元に肉を加え、美味そうに貪り食った。
おそらく、歯がないはずなのにである。ただの老婆ではない。当然だ。老婆に来られる場所ではない。
「まだ食うか?」
「ひっひっ、いいのかい? 腹がいっぱいになるのを待っていたら、朝になっちまうよ」
「大食なんだな。その間に俺は寝ているからいいよ」
「のんきだね。妹と違って、私は夜しか出られないのさ。朝になったら、あんたの望みは叶えられないかもしれないよ」
「そうしたら、俺はどうしたらいい?」
「私は何もできない。だから好きにするがいい」
つまり、朝まで何もせず、老婆が消えた後、勝手に氷の女王を倒しに行けばいいということだ。
それでもいいのではないかと思ったが、やはり聞き捨てはできなかった。
「……アデルという仲間が行方不明だ。探せるか?」
「私にできないことはないよ。だが、ただじゃないね。飯一回分じゃ割に合わない」
「何をすればいい?」
「妹はただ力さえ示せば力を貸す。気前のいい、言い方を変えると、惚れっぽい女だ。私は違う。仲間を救いたいなら相応のものを失いな。それで助けてやろう」
「……俺の命か?」
「いや、それではつまらない。あんたみたいなのは、まだこの世界にいた方がいい。明日になればわかるよ。いや……わからないかもね。選択はされた。あんたはもう選ばなくていい。それだけは喜びな」
不思議な老婆のいびつな笑みを見ながら、俺は再び眠りに落ちた。
俺は寒さで目が覚めた。
焚き火は消え、外から風が吹き込んできていた。
魔物の毛皮で作った扉を、昨日の老婆はちゃんと防がずに出て行ったのだ。
老婆を呪う言葉を吐きながら、俺は伸びをした。
不思議な老婆だ。ファンタジーな世界であることは理解していたつもりだったが、思ったほど突拍子も無いことが起きている感じもなかったので、昨日の老婆にはとても違和感を覚えた。
俺が焚き火の後始末をしようとすると、扉代わりの魔物の皮がめくりあげられた。
「なんだい、もう消しちまうのかい?」
「……アデル?」
「ああ」
「どうしていた? てっきり、雪に埋まって身動きが取れなくなったかと思った」
「その通りだよ。突然でかい爆発に巻き込まれて……気がついたら雪の下だった。あたしは重いからね。てっきり……春まで出られないと思っていた」
アデルは、少し疲れているようだった。相変わらず真っ黒い顔でにたりと笑う。
「……ごめん。探しにいこうと思ったけど、俺も限界で……巨人たちの縄張りに入れなかった」
「ああ。仕方ないさ。そうしろっていう意味で逃したんだからね」
「アデルは、どうやって助かったんだい?」
「助けられたのさ。誰かに呼ばれているような気がして、もがいているうちに地上に出た。外はもう真っ暗だったからね。巨人たちは動かない。あたしは、なんだかこっちにカロンがいるような気がして、登ってきたんだ」
「……そうか。老婆には会わなかったのか?」
「いいや。老婆ってのはなんのことだい?」
「あとで話すよ。まずは体を温めよう。それとも、アデルにはそんな必要ないかい?」
「いや。冷たいところでも耐えられるだけで、凍りついても平気ってわけじゃない。温めた方が動きやすい」
「わかった。じゃあ火を熾す。もう一泊、ここで過ごしてもいいかもな」
老婆に会ったら礼を言いたい。俺はそんな思いで提案したが、アデルは首を振った。
「いや……それはやめておいてたほうがいい。ここは、氷の女王と対立する女神が封印されていた場所だ。今は、王国に人間の姿で君臨しているから誰もいないと思うけど、縁起のいい場所位じゃない。いろんなものが引き寄せられる。昼ごろまで休んだら、山を下るとしよう。下るだけだから、麓近くには出られるはずだ。巨人の谷を越えられるよ」
「ここで一晩明かしたのはまずかったかな」
言いながら、俺は薪を取り出して火を点けた。
真っ赤に燃え上がる火に、アデルが手をかざす。
「済んだことだろう。それとも、何か出たかい?」
「ああ……奇妙な老婆に会った」
俺は、昨日会った老婆のことをアデルに話した。
話を聞き終わり、アデルは魔物の肉を噛みちぎりながら言った。
「ヴァルメスの2つ名は災厄だ。もし、その婆さんが姉だってのが本当なら、幸福ではないだろうね。だけど、カロンの望み通りあたしをここまで導いた。なら、それほど性悪でもないんだろう。ヴァルメスだったら、あたしを殺して入れ替わるぐらいはやる奴だ。でも……カロンはなにかを失ったはずだ。何かわかるかい?」
俺は、自分のステータス、アイテムボックスを確認した。
何を無くしたか、気がつかないようなことかもしれない。初めからなかったと思い込まされれば、それは無かったのと同じことだ。
アイテムボックスの比較的上の段に、不自然な空白があったのが気になったが、何を入れてあったのか思い出せない。
「……いや。問題はなさそうだ」
「そうかい。なら、あたしを助けるんじゃなくて、氷の女王を殺してくれって言っていたらどうなったんだろうね」
「試してみるか?」
「今晩? いや、やめておこうよ。代償になるものに選択権がないなら、カロンかあたし、どっちかは死ぬだろうからね」
俺も同じことを考えていたので、当然のように同意した。
カマクラのキャンプを畳んで、俺とアデルは山道を降る。
「悪かったな。せっかく手懐けたスノウドドンゴを死なせちまった」
「何っているんだい。どうにもならなかったよ。巨人の縄張りを遠回りするのは時間がかかりすぎるし、急がせたのはあたしだ。まあ、あそこまでしっかり懐かせなくても、乗り物が必要なら何か見つかるだろう」
俺はどんどん降ったが、アデルも平然と付いてくる。
勇者と戦士ではそれほど違いがないのだろうか。勇者はレベルが上がりにくいらしく、現在はレベル差もそれほどないのだ。
雪山をねぐらにする大角鹿や雪兎に何度か遭遇し、食料を増やしたが、それ以外は特に危険もなく山の麓に達する。
アデルが予測した通り、ほぼ半日かかった。
木々の隙間から氷の平原が見える位置で、俺たちは再び野営をすることにした。
「うん、巨人たちの集落の反対側だね。ここから先は、完全に氷の女王の縄張りだ。見つかればすぐに戦闘になると思っていていい。氷の女王は、自分は城から動けないって噂があるけど、代わりに山ほど配下がいる。下手すると、明日からずっと戦い通しになる。気を引き締めなよ」
再び雪でカマクラを作り、中に入ってから、アデルに教えられる。
「ああ。MPは全回復したが、城までどの程度節約できるか心配だな。アデルは戦士のままでいいのか? 火系の魔法は有効だと思うが」
薪に火を付け、食事を取り出しながら尋ねた。
「そうかい? 氷の彫像を火で溶かすのに、あんたがよく使うボヤを何回使うんだい? それなら、殴った方が早いよ」
「ああ……そうかもしれないな。獣とは違う……作られた魔物なら恐れもないから、確実に破壊するべきか。急に不安になって来たな」
「心配になったのなら結構だ。どう戦うか、十分に考えるんだね」
アデルは腹が一杯になると横になった。氷の女王の縄張りの中でも、特に見張りを立てるという必要はないらしい。
俺も横になる。
警戒していても仕方がない。そういうことだろうか。
翌日、俺は油断していたことを後悔した。
カマクラから抜け出ると、周囲を氷の彫像のような兵士に囲まれていたのだ。
体が透けている。ほんとうに氷の像が動いているようだ。アイスゴーレムということなのだろう。
「すっかり囲まれているじゃないか。カロンあんた、ちゃんと見張りをしなかったのかい?」
「『見張り』? した方がよかったのか?」
「どうして見張りをしなくても大丈夫だと思ったね?」
「アデルが、何も言わずにさっさと寝てしまうからだろう。この辺りのことはアデルの方が詳しいんだ。信用していたのに」
「あんた、冒険者だったんだろう。見張りをするのは当然だって知っていそうなもんだ。時間が来たら起こすものだと思って、先に寝たんだよ。一緒になって寝る奴があるかい」
「……悪かったよ。で、どうしたらいい?」
「あたしに聞きなさんな。どうしたい?」
「ゴーレムみたいなのが30に……白い毛皮の狼が20頭……バッキラはいないのか」
「あれは知恵が回る。氷の女王の配下にはつかないだろう」
「じゃあまあ……タイカ」
俺とアデルを取り囲む一団に、炎の範囲魔法をかける。
元々の威力では、氷の彫像に一撃で大したダメージもないだろうが、ホライ・ゾンの血で強化された部分だけは健在だ。
アイスゴーレムたちがぐらつき、狼たちが毛皮を焼かれてゴロゴロと転がった。
「やるじゃないか」
アデルが飛び出す。
俺も剣を取り出した。
乱戦になり、平原に向かって抜け出したのは、アデルとほぼ同時だった。
「見張りをサボったのは許してやる」
「ああ。打ち合わせしないで、先に寝たのもな」
俺とアデルは少しだけ仲直りし、氷の平原を駆けた。