112 アデルを頼む
爆発かと間違えるような巨大な水疱が何度も上がり、凄まじい勢いでエルフの森の泉が干上がっていく。
俺は、信じがたいものを見ている気分だった。
泉の水がどんどん少なくなっていく。
「ビリーは……水の中で息をしなくても平気なのか?」
「ビリーはこの水が自然界の水ではないことを知っています。私の力が作り出した魔力そのものであることを知っています。もともと、この中に入っても息はできるのです。水の中では息ができない。そういう思い込みが……生物から呼吸を奪い、命を奪うのにすぎません」
俺の頭の上で肩車をされながら、エルフの女王フェラリーリが告げる。
「……じゃあ……ビリーは、何をしているんだ?」
「水の中で死なないことを理解しても、水から上がれるわけではないのです。体温を上げ、泉を干上がらせることは……私を弱らせることです。理解しているのでしょう。この泉の水が完全になくなれば、私の命も消えるというこしとを」
「……えっ? それは困る」
「そうよ。困るわ」
フェラリーリのさらに頭の上から、カマキリのアリスが騒ぎ立てる。当然のように、アリスの言葉はエルフの女王には届かない。
「ならば、泉の水がなくなる前にビリーを殺してください」
「……ああ。わかった」
理屈はわかった。できるとは言っていない。
泉の底から、長く尖った二本の角が突き出していた。動いていない。覆い隠していた水が減ったのだ。
さらに水は減り、火鬼のビリーが、全く動かずに泉の底で仁王立ちしていたことがわかる。
顔が露出し、顎が現れ、肩が表出し、胸が目に触れた。
腕にアデルを抱いている。
真っ黒い、まるで幼い少女のような姿をした悪魔の女は、ビリーの腕に抱かれてぐったりとしていた。
ピクリとも動かない。たぶん死んでいる。ビリーの、凍りついたような絶望の表情が、俺にそう感じさせた。
ビリーは動かない。ただ、目玉が高い位置にいる俺を捉えた。
「バン、レベル3」
現在使用できるもっとも高火力の魔法を放つ。一度で125のMPを消費し、ビリーと同じ7魔将のホライ・ゾンの肉体を吹き飛ばした魔法だ。
ビリーの目の前で、堅牢な建物さえ崩壊する爆発が生じる。
ビリーの体は吹き飛ばされ、倒れた。
だが、死なない。肉体は損傷していない。無傷だ。腕にアデルを抱いている。
俺は飛び降りた。泉の底に落ちると、腰までが沈んだ。もうこれしか水が残っていない。すべて干上がれば、エルフの女王は死ぬ。
「ビリーは殺す。離れていろ」
「ええ。頼みます」
俺が勝てなければだけでなく、ビリーを倒すのに時間をかければ、エルフの女王は死ぬ。
それを知らないはずはないが、エルフの女王はそれ以上何も言わず、俺の頭から飛び降りた。
地面に触れることはできないと言われるフェラリーリだが、その分水の上なら平気なようだ。
むしろ、腰までが沈んだ俺とは違い、水にすら触れることななく水上に浮き上がっていた。
同時に、俺の隣で激しく水柱があがった。
「ドディア、泳げたのか?」
「……足……着く」
「なるほど」
俺が飛び降りたのを見て、浅いと判断したのだろう。ドディアが降ってきたのだ。
フェラリーリの頭から俺の頭にアリスが移動し、ドディアの背負う荷物からララが飛び出した。
全員が顔を揃える始めての戦いだ。
俺は腰まである水が少しでも長く持つことを祈りながら、水の中を進んだ。
その先では、アデルを抱えたビリーが立ち上がっていた。
ビリーの体から、もうもうと湯気が上がっている。俺は剣をアイテムボックスから取り出した。かつて、闘技場で騎士たちから取り上げた鉄の剣だ。
剣を構え、ゆっくりと近づく。
自分の体温で泉の水が干上がるほどの熱量を発しているのだ。いかに体力があろうと、まともに戦える状態のはずがない。
「……お前……何者だ?」
「カロン」
「そうか。お前が……ホライ・ゾンから聞いていた。お前となら……きちんと戦いたかった」
ビリーの体が限界にきているのだ。ビリーの体がどんな素材でできているのかわからないが、体の表面に亀裂が走っていた。
「まともに戦っていたら、まず俺は死んでいたよ」
「そんなことはあるまい」
「さっきの爆発の魔法が俺の最大の攻撃だ。あれ以上はない。さっきの攻撃が効いていなかったのなら……俺には打つ手がない」
「それでも……逃げずに向かってきたのだろう。お前なら……俺を正面から倒すともできただろう。残念だ……アデルを……頼む。息をしていない」
ビリーが、アデルを抱いた腕を前に出した。ビリーは長くもたない。力を使い果たしている。
火鬼のビリーは、鬼族ではなくゴーレムだったのかもしれない。体の表面に走ったひびが広がり、ビリーの腕が折れた。抱えていたアデルが落ちる。
俺は、水中に沈む前にアデルを抱き上げた。重い。
水中でも腕が痺れるほど重い。
「……アデルを……頼む……」
最後に繰り返してそう言った後、ビリーは崩れた。
「……本当に倒してしまいましたね」
「俺は何もしていない。ビリーが勝手に死んだんだ」
水上を歩いて近づいてきたエルフの女王は、冷ややかにビリーを見下ろした。
「七魔将……火鬼のビリーはゴーレムなのか? それとも、これはただの操り人形で本体はどこかにあるのか?」
「そうだとも、そうでないとも言えますね。ビリーは魂のない、でもとても精巧なゴーレムでした。操っていたのは……いまだ生存すら確認できない……魔王自身か、魔王に最も近い存在でしょう。私が気づくのが遅れていたら……エルフの力を吸い尽くされて、魔王の復活……死んでいたとしてですが……が早まっていたでしょう。魔王は世界中のどこにも確認されていません。かつて、大戦により滅ぼされたままです。でも、魔物以外の人間もその他の種族も、まだ大戦の傷は癒えていません。このまま魔王が復活すれば、いずれ世界は魔王の手に落ちるでしょう。カロン……魔王を復活させる方法は1つではないし、七魔将の全員が、その方法を追っていると思いなさい。ビリーが失敗したことは、いずれ他の魔将に知られるでしょう。いずれ私は別の魔将軍に狙われます。その時……再びカロンが駆けつけてくれるとは限りません。私はエルフの森を閉ざします。誰も入ってこられないように……外に出たままの同胞は気の毒だけど……私が魔王を復活させるよりはましだと納得してくれるでしょう」
「……待ってくれ。まだ俺との約束が果たせていないだろう。アリスはどうなる? 本当は人間なのに、カマキリの体に入ったおかけで、もうすぐ寿命を迎えるんだ」
「虫に生まれ変わったのなら、虫として死ぬのが自然……と言いたいところですが、カロンには恩があります。ただし、時間がありません。もうエルフの森を封鎖する術は始まっています。そのカマキリの中に入っている魂が入る、別の器が必要です……それでいいのですか?」
エルフは、俺がようやく抱えている、息をしていないアデルを見下ろした。
「……ビリーから、アデルを頼むと言われている。でも……俺にはどうにもできない。もう死んでいるか、仮死状態だ」
「試してみればいいいいわ。メディカ」
アリスがアデルに向かい、治癒の中位魔法を唱えた。アデルに変化はない。どうやら死んでいるらしい。
「……大胆なことをするな。もしアデルが弱っているだけだったら……自分の器がなくなるところだぞ」
「それでもいいわ。さっきの、あたしも見ちゃったからね。ゴーレムかもしれないとはいえ……あれだけ真剣に愛されて……頼むって言われたら……生きているけど体を頂戴なんて、私には言えないわ」
「……そうか……そうだな」
「独り言は終わりましたか?」
エルフの女王にも、カマキリの言葉は聞こえないようだ。俺は頷き、頭の上にいたアリスをアデルの体の上に移した。
「このカマキリの魂を、アデルの肉体に移してくれ」
「いいでしょう。生命、反魂、自然を司る世界の王たちよ。汝らの末端に位置する我が祈りを聞き届けよ。この哀れな生き物の魂を、空の器に移したまえ」
エルフの女王の言葉と同時に、カマキリの体が倒れた。静かに、ゆっくりと死ぬように、アデルの上に横たわった。