107 入っているのは、アデル様がさらった人間だ。食うのか?
俺は、突然のことで知恵が回らなかった。
「ヒエ」
知恵は回らず気の利いた言葉で取り繕うことはできなかったが、火鬼というぐらいだから冷気に弱いだろうと思う程度には冷静だった。
ビリーの全身を冷気が覆う。
「……ぐっ……」
苦鳴を漏らしながら、ビリーは俺に向かって腕を伸ばした。捉えられれば逃げられない。俺は即座に下がった。
背中から抑えられた。バッキラが抑えていた。もふもふとした感触でわかる。俺の腕と胴体を同時に抑えているので、腕が四本あるのも間違いない。
「離せ。アデルの敵だ」
「お前が味方だとは限らない」
それはもっともだ。俺に気を許しているはずがない。ビリーと敵対したのは失敗だった。
「……誰だ?」
ビリーが自分の体を叩きながらゆっくりと近づいてくる。俺の魔法による影響を確認しているのだろう。動きがゆっくりなのは、たぶん俺のことを警戒しているのだ。
「ただの侵入者だ。アデルのファン……だと言えばわかるか?」
嘘だ。だが、すでに攻撃してしまったビリーはとにかく、敵を増やさないためには最善だと思えたことを口にした。
「……ほう。俺からアデルを奪うか……おもしろい」
ビリーは笑った。余裕だ。やはり「ヒエ」だけではちょっとしたいたずら程度にしか効果がないのだ。
「い、いらないんだろう? エルフの女王と結婚するんだろう。なら……アデルは必要ないだろう。それとも、ハーレムを作るのか?」
「そんなつもりはない。だが、アデルを他の男に渡すつもりはない」
「そいつは……誰だい?」
ビリーの背後から、黒い女が姿を見せた。黒い肌に、赤い髪をした小柄な女だった。口が耳元まで裂け、牙が唇から覘いている。丸顔に鋭い目つきが印象的だ。全体に黒く、身長は俺の腰ほどまでしかない。幼女タイプの女悪魔だといえばいいだろうか。
俺は、そもそもビリーは幼女趣味なのだろうと推測した。
「アデルのファンだそうだ」
「……あたしの? あたしは、ビリー一筋だ」
言いながら、まんざらでもなさそうに口を開けた。笑ったのだろう。怒ってくれた方がましだった。
「ビリーはロリコンか?」
「違う!」
「あたしを見ればわかるだろう」
ビリーが強く否定し、アデルは胸を張った。ビリーの気持ちはわかったが、アデルの主張は何を意味しているのかわからない。
「……つまり、ロリコンか?」
俺は、アデルだけに尋ねた。
「まるで、あたしが幼いみたいじゃないか!」
「……いや、幼いだろう」
「ビリー! やっちまってよ!」
「自分でやれ。俺は結婚式に行く」
「待ってよ! おい、お前! あんたの話は後で聞いてやる。ビリーを止めろ」
「……わかった。やるぞ」
俺は、背後の魔物に呼びかけた。バッキラと人面グモだ。計らずも、共闘が可能になった。これだから行動の読めない相手は苦手だ。
俺はビリーの前に立ちはだかった。
「悪いな。急ぐのだよ」
ビリーは巨体に似合わない敏捷さで、俺の頭上を越えた。
着地地点にバッキラが構える。ビリーの足の一振りで沈黙する。
そのまま、毒を吐いた人面グモを払いのけた。
「何やっているんだい!」
アデルが叫びながら飛びかかる。血の匂いがした。飛び上がった時、血が飛び散った。血は、主にアデルの口から滴り落ちた。ビリーの配下を牙で噛み殺したのだ。
その動きに、俺はアデルには勝てないだろうと実感した。それほどの動きだった。単純に、身体能力が高い。
それがどれほど脅威か、思い知らされた。
しかも、そのアデルをビリーが打ちはらう。壁に叩きつけられ、アデルが床に落ちた。
「おい、アデルを押さえておけ。成功したら……一度ぐらい、想いを叶えさせてやる」
ビリーは俺に命じた。俺は、震える体を叱りつけて、床にくずおれるアデルを押さえつけた。
「……おい」
「どうせ、気絶している……」
バッキラにたしなめられたが、バッキラもビリーによって深刻なダメージを受けている。
ビリーは、まるで何事もなかったかのように階段を降りていった。
確かに、あれは無理だ。
ビリーを倒すということを、俺は諦めかけていた。
俺は、気絶したアデルを抱きかかえてビリーがいた部屋に戻った。塔の内部のことはさっぱりわからない。アデルの従える魔獣も知らないらしく、唯一部屋であることがわかっているビリーとアデルが言い争っていた部屋なら、ベッドぐらいはあるだろうと思ったのだ。
俺は、戻って後悔した。
部屋は、血で塗れていた。石畳の床は一面が血で覆われ、足の踏み場もない。床には、まめでただ捨てられたかのように、魔女と思われるフードを被った者たちの死体が転がっていた。
アデルを抱え、寝かせるベッドを探した。さらに奥の部屋に、麻袋がいくつも転がされ、木の杭を、尖った部分を上に向けて並べた、四角い場所を見つけた。
たぶん、これがベッドだ。ビリーは、常に尖った杭の上で寝ているのだ。
「……これ、ベッドだよな。この上にアデルを寝かせて大丈夫なのか?」
いつアデルと戦闘になるかわからない。アデルは敵である。それなのに、なぜか心配をしている。
自分の言動に矛盾を感じながら、つい背後にいた魔物たちに尋ねてしまった。
「アデル様なら大丈夫だ」
「むしろお慶びになる」
「……そうか」
俺は、魔物に言われた通り、アデルを投げ捨てるように尖った杭の上に転がした。アデルはごろごろと転がったが杭には刺さらなかった。気持ちよさそうに眠っている。気絶させられたとは思えない、幸せそうな顔だった。
普通にしていればひたすら凶悪な顔つきだけに、幸せそうな寝顔には違和感しかないが、寝ているうちは害はない。
「……結局、ビリーは止められなかったか。エルフの女王……あの体であの大男と結婚するのはかわいそうだが……俺にはどうにもできないな……」
「でも……殺さないといけないでしょ。エルフの秘術を使ってもらわないと、あたしの命がもたないわ」
俺の頭の上で、アリスがぼやく。
「……わかっているよ。どうしても勝てない相手なら、どこかでレベル上げをして再挑戦だ。バンレベル4まで使えれば、かなりいい勝負になるんじゃないかな」
「どのぐらいレベルを上げれば使えるの?」
「……レベル50ぐらいだろう」
今までのところ、爆発を生む魔法バンだけは魔法にレベルがあり、1レベルの消費魔力5から、累乗で必要MPが増えている。レベル3で125、レベル4なら625だ。
「‥……あたし、それまで生きていないわ」
カマキリの寿命である。
「わかっている。なんとかしないと……同じ七魔将のホライ・ゾンは倒したんだ。ビリーを倒す方法もあるさ」
「どうした? 突然、物騒なことを言い出したな」
俺の言葉は聞こえても、バッキラはアリスの言葉は聞こえないらしい。俺がただ独り言を言った感じになっているのだろう。
ビリーに忠誠を誓っているわけではないといっても、支配者の支配者だ。倒すとなれば、バッキラも人面グモも敵になる。
「もちろん冗談だ。アデルが悲しむしな……ところで、あっちの袋は助けてやりたい」
「入っているのはアデル様がさらった人間だ。食うのか?」
「俺も人間だ。外に逃すのさ」
「外はエルフの森だぞ。逃げられるか? 人間には、迷って外に出る道もわかるまい」
「そうか? 俺も人間だが……」
「お前は違う」
バッキラは失礼なことを言った。人面グモの複数の顔が一斉に頷く。バッキラの言葉は解っていないはずなのに、こちらも失礼だ。
「とにかく、袋の中に入ったままでは弱って死んでしまうかもしれない。出してやろう。それから、俺が森の外まで連れて行く。その途中で死んだとしても、それは仕方がない」
「好きにしろ。だが……ビリーへの餌として連れてきた女たちだ。もう用済みだ。俺たちがこの場で食い殺しても、アデル様も怒りはしない」
「……そうか。ヒツジ、ヒツジ」
俺は、隙をついて補助魔法の「ヒツジ」を二度放った。バッキラと人面グモが途端に眠りに落ちる。実に便利だ。最初に戦った時から使用しておけばよかったのかもしれないが、興奮している相手は眠りにくい。戦闘中の相手には、効果が薄いのだ。
そのまま崩れるように眠ったバッキラと人面グモに背を向け、俺は麻袋を切り裂いた。