悩み
「トウジュロ」
呼ばれて彼女は顔を上げた。食器棚の上で毛づくろいしていたのに、なんの用だろうか。
「適当に糸、盗ってくれない?にぼしあげるから。一本」
トウジュロは再び毛づくろいを始めた。
「二本」
次は顔をしようかな。
「……三本」
……やれやれ仕方ないわね。
トウジュロは立ち上がると冷蔵庫の上、電子レンジの上を通って床におり、希麗の作業場に入った。壁には様々な糸が置かれているショウケースがあるが、トウジュロが向かったのは机の上だ。
机の上にはまだ完成していない作品が置いてあり、その隣に切り取られた短い糸が散らばっていた。
トウジュロはその中から一本を適当に選んで咥えると、リビングにいる希麗の膝の上に飛び乗った。彼女はそれを受け取るとトウジュロの頭を軽く撫でた。
「ありがとう。後であげるね」
言われたトウジュロは、そのまま膝の上で毛づくろいを再開した。
青輝は突然現れたトウジュロに驚いていた。音が全くしなかった。猫ってこんなにも足音ならないっけ。
希麗はトウジュロが持ってきた青い糸をぴんと張って青輝に見せた。
「これ、触れずに切ってみて」
「は?」
ほら早く、と希麗は急かす。そんなこと言ったって、できるわけがない。
「そういうこと」
言って、希麗は糸をテーブルに置いた。
「私は視えるだけで、触ったり切ったりできないよ」
「はっ?」
思わず青輝は立ち上がった。
「騙したんですか!」
「最初から視えるとしか言ってないよ。大体そんな大事なもの、なんで人の手でどうこうできると思ったの」
ぐ、と息を詰まらせた。確かに、それは自分の思い込みだった。
「じゃあ、なんで俺の話聞いたんですか」
「その願いをなんで持ったかを知るためよ」
希麗は小さくなった氷を一つを口の中に入れて嚙み砕いた。
「家族関係は正直他人は口出ししにくい。それでも、自分たちでできる限りの解決策を考えることはできる。それに、君は幸運なことに海洞が警察官だ。いざというときは頼れる」
でも、と希麗は再び腕時計を指さした。
「こんだけのことで縁を切ろうなんて考えてはいけない」
青輝は頭に一気に血が上るのがわかった。
「こんだけのことってなんだよ!あんたはこの苦しみを知らないからそんなこと言えるんだよ!」
「君は勘違いをしている。縁はとても重いものなのよ。確かに簡単にできて簡単に切れるものだと言ったけれど、一度縁が固く繋がれば、それが切れることはないわ。肉親ならなおさらよ」
思わず希麗も立ち上がった。トウジュロが文句を言いながら膝から落ちた。
「縁がなくなるということは赤の他人になるということ。両親を失うことがどういうことか、君はまるで分っていない」
「俺はあの二人と他人になりたいんだ。もう関わってほしくないんだよ!」
「本当に?」
熱くなっている青輝に対して、希麗は冷静に問うた。
「本当にそう思っているの?」
その質問を、青輝は鼻であしらった。
「視ればいいじゃんか。そんなもの」
青輝は玄関へ向かった。これ以上言い合いをしても時間の無駄だ。
希麗が追いかけてきて腕を掴んだ。青輝はそれを振り払った。
「帰ります。ついてこないでください」
「帰るのは別にいいよ。でも青輝君。これだけは言わせて」
青輝は靴を履きながらそれを背中で聞いた。
「その時計をもらった時のことをよく思い出して。君の思い込みで、お父さんの想いを塗りつぶさないで」
ドアを開けながら、青輝は振り返った。
「視えるからそんな簡単に言えるんですよ」
ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
希麗は椅子に座りなおして項垂れた。こんなに落ち込んだのは久しぶりだ。
「人の想いを伝えるのって難しいなぁ」
縁を通じて、今まで様々な想いを視てきた。けれど、それをどう伝えたって、結局信じるかどうかは受け取り手次第なのだ。
ましてや今回に限っては、青輝が完全に拒否している。あれでは届くものも届かない。
はぁ、と重い溜息をつくと、足元からブサイクな鳴き声が聞こえた。トウジュロだ。
「ああ、そっか。にぼしあげなきゃね」
言って、台所にある戸棚からにぼしを三本取り出して床に置いた。トウジュロがそれを食べている間に、コップを洗って戸棚に戻した。
〝あなたのその視る能力は、必ず人の役に立つ”
かつて自分にそう言ってくれた、優しい顔を希麗は思い出した。
この能力を使ってできること。今はそれを考える必要がある。
何か、彼が自分で気づくきっかけを作らなければ。人に指摘されるだけでは、本人は真に理解することができない。
リビングに戻ろうとした希麗は、足元を見て思わず笑った。
「気を遣わせちゃったかなぁ」
トウジュロがいた場所には、にぼしが一本だけ残っていた。
青輝は腹が立って仕方がなかった。
真剣に悩んでいたのだ。自分の人生だから、もっと自分がやりたいようにやりたい。それなのに両親、特に母親は毎日のようにこちらに干渉してくる。これではこの町に来た意味がない。
電話してこないでと言えば、今度は海洞に自分の状況を聞こうとするか、逆に電話の回数が増えるだろう。あの女性はそういう母親だ。
どうしても切りたかった。これ以上干渉してほしくなかったのだ。
それなのに、希麗はそれを〝こんだけのこと”で片付けた。
「ああ、腹立つ」
期待した俺が馬鹿だった。結局なにも変わらない。
どうしたら関わってこなくなるだろうか。
いっそ死ねばいいのに。あの両親。
そう想ってしまう程に、青輝の心は荒れていた。
そして気づかなかった。
自分の後を追っている存在がいることに。