縁切り
「刺繍屋!?」
青輝は希麗の話を聞いて驚いた。どこで働いているのか気になっていたが、まさか自営業だったとは思わなかった。
「今日は休みにしているんだけどね~」
言いながら希麗は鍵を取り出した。どうやら目の前の家が希麗の家らしい。ドアに〝Close”の看板が掛けられている。
ところが、希麗はそこから入ることからせず裏口へ回った。
「え、入んないの?」
「表はお客様専用。君は私のお客であって店のお客様じゃないからね」
裏口前に立ち、鍵を鍵穴に差し込んでガチャリと開けた。その動作を見て、青輝は感心した。
「ドアの開け方知ってるんですね」
「流石にそれ失礼じゃない?」
「毎回窓から入ってくるあなたが悪いんですよ」
むっとして答えると、希麗は眉をひそめた。
「なに? まだ昨日のこと怒ってるの?」
言われて思い出した。急に現れてはすぐに去っていく希麗に自分を監視してる母親の姿を重ねてしまって、ほぼ八つ当たりのように追っ払ってしまったのだ。
そのことをずっと謝ろうと思っていたのに、そういわれると謝る気が失せてしまった。
「いいえ。別に」
「そう。じゃあ入ろうか」
ああ、言いたかったのはこれじゃなかったのに。
青輝は肩を落として希麗に続いて中に入った。
お邪魔します、と靴を脱いだ時だ。
「あ、動かないで」
言われて思わず顔を上げると。
目の前に、猫の顔があった。
「うわぁ!?」
驚いて2、3歩後ろにさがると、靴箱であろう棚の上に乗っている灰色の猫が首を伸ばしていた。
「言い忘れてたわ。青輝君。家に入るときは必ずトウジュロ嬢の検査を受けてね」
「と、トウジュロ嬢?」
「その猫の名前。トウジュロっていうの」
「変わった名前ですね。嬢ってことはメスですか」
「そ。この家のお嬢様だからね」
「……もっと可愛い名前つけてあげればよかったのに」
いいから早く、と急かされ、青輝はゆっくりトウジュロに顔を近づけた。彼女は主に口元を嗅ぎ、最後に小さくくしゃみをするとどこかへ去っていった。
「今、地味に傷ついたんですけど」
「気にしないで。いつもあんな感じだから」
リビングに通され、青輝は小さなテーブルを囲っている椅子の一つに腰を掛けた。とてもシンプルな部屋だ。けれど必要なものしか置いていない自分の部屋とはどこか違う感じだった。
希麗は飲み物を用意すると、台所から戻ってきた。
「おまたせ~」
テーブルに、氷の入ったリンゴ酢が置かれた。
「飲み物のチョイスがおかしいと思う」
「君、本当によくツッコミ入れるね」
「俺もこんなに口出ししたの初めてです」
いただきます、と一口飲むと、口の中に酸味が広がって思わず口をすぼめた。しかし後味がすっきりしており、夏の暑さを和らげてくれた。
「やっぱりすっきりしたいときはリンゴ酢よね」
「聞いたことがないです」
「でも、いいでしょ?」
「……まぁ、そうですね」
希麗は嬉しそうに笑うと、さて、とコップを置いた。
「頼みたいことってなに?」
空気が一気に変わった。ピリっとした空気が青輝を包み、緊張が走った。先程の雰囲気とギャップがありすぎて正直つらい。いつの間に重くなっていたのだろう、口を開けるのが難しかった。
「……切りたい縁があるんです」
希麗は目を細めた。今までの柔らかい雰囲気を、もう彼女から感じることができなかった。
「誰との」
「…………両親」
「なんで?」
ぐ、とこぶしを握った。ここから先は海洞以外に話したことがない。
「母さんは周りの目を気にして、俺自身を見てくれません。少しでも〝いい子”に当てはまらない行動をしたらヒステリックに喚き散らす。常に周りから褒められる〝いい子”な息子であれば後はどうでもいいんです」
青輝はリンゴ酢を一口飲んで口を湿らせた。
「父さんは俺に興味がないんです。俺がなにをしようにも無関心。口を開いたと思ったら、母さんの味方ばかりして自分の考えを言わないし、俺の意見も聞かない」
悔しくて、手にさらに力が入る。うつむいて、必死に喉から声を出した。
「嫌なんですよ。あの二人と一緒に暮らしていても俺は独りなんだ。あの人達と暮らしていたら、俺は俺らしく生きられない。そんなの辛くて苦しくて、耐えられない。今でも電話がほぼ毎日かかってくるんです。〝ちゃんといい子にしているのか”って」
それに対して無感情な声で返事をしても、母親は言葉だけに満足する。
「二度と会いたくないし、話したくない。あの二人から切り離されたいんです。俺は」
そこまで話して、青輝は久々に息を吸ったような感覚を味わった。思ったより大声で話していたのかもしれない。
「なるほど」
先程から一度も口を挟まなかった希麗がゆっくりと言葉を紡いだ。
「じゃあ、両親が大嫌いな青輝君に質問です。なんでその腕時計をしているの?」
え、と音になっていない声が出た。質問の意味がよくわからない。
「その腕時計。お父さんにもらったんでしょう」
青輝は驚いて目を見開いた。左腕を思わず持ち上げると、反射で時計がキラリと光った。
今まで誰にも話したことがない。海洞にさえも。
「なんで知ってるの」
希麗は目を細めたまま、人差し指で腕時計を指してくるくると回した。
「絡みついているよ。お父さんとの縁が」
ぎょっとして思わず腕時計に目を凝らした。当たり前かもしれないが、青輝には絡みついているものなど何も見えなかった。
「縁は人と人を繋ぐだけじゃない。思い出の品なんかがあれば、当然それにも絡みつく。二度と会いたくない人からもらったものをなんで大事に持ってるの」
なんで。そんなのは決まっている。
「これしか腕時計ないからですよ。父さんがくれたからとか関係ない。使えるものは使います」
物なんてそんなものでしょ。
そういうと、途端に希麗は悲しそうな表情になった。悪いけど、あなたがどう思うと俺には関係ない。
「早く切ってください。この縁、いらないんですよ」
コップの中にあった氷が、小さく音を立てて崩れた。